「北条貞顕」の版間の差分

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3月16日、貞顕は内管領・[[長崎高資]]により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。このとき貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど精力的な活動を見せた<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉111頁。</ref>。
 
だが貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家した<ref>『[[保暦間記]]』には「関東の侍、老いたるは申すに及ばず、十六、七の若者どもまで、皆出家入道す、いまいましくも不思議の瑞相なり」とある。</ref>。これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため<ref>3月20日付の貞将宛の書状で貞顕は「やがてやがて、火中に入れられ候べく候」と身の危険を感じていたことを示している一文がある。『金沢貞顕』〈人物叢書〉111頁。</ref>、窮地に立たされた貞顕は10日後の3月26日に執権職を辞職して出家した(法名は'''崇顕'''(すうけん))
 
そして新たな執権には4月24日に[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]]から[[北条守時]]が就任した。一連の騒動は[[嘉暦の騒動]]と呼ばれる。
 
=== 晩年と最期 ===