「マリー・ド・ブルゴーニュ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]と、その2番目の妻である[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘[[イザベル・ド・ブルボン]]の間に生まれる。シャルルの唯一の子であり、ヨーロッパ随一の経済力と成熟した文化を誇っていたブルゴーニュ公国の唯一の後継者として恵まれた少女時代を送った。しかし[[1477年]]、父シャルルが[[ナンシーの戦い]]で陣没し、ブルゴーニュ公国内では内乱が勃発した。フランスの侵攻と同時に、貴族がこの機会に権利の拡大を画策し始め、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と組んだ貴族や大商人たちが、都市の自治の承認とフランス王太子シャルル(後の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]])との結婚をマリーに迫った。マリーはこれを拒否して孤立し、幽閉同然の暮らしに追いやられた。1477年2月、{{仮リンク|大特権|en|Great Privilege}}という文書に署名させられ、[[ブルゴーニュ公爵領ネーデルラント]]に大幅な特権を与えた。義母[[マーガレット・オブ・ヨーク|マルグリット]]の助言を得たマリーは、父の定めた婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、こうして1477年8月19日、[[ヘント|ガン]]の聖バボ教会で挙式した。
 
政略結婚ではあったものの、マクシミリアンとは共に狩りに出かけるなど非常に仲睦まじい夫婦であったという。[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ]]と[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]の2子(次男フランソワは夭折)に恵まれるが、第4子を懐妊中の1482年3月、落馬事故で流産した上に大怪我を負い、それが原因で3週間後に死去する。