「エクアドルの歴史」の版間の差分

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ベラスコ・イバラは独裁的な姿勢を採ったため、1935年に軍事クーデターで失脚した。その後政治的な混乱が続いた後、1940年に不正選挙でベラスコ・イバラを破り、グアヤキルの寡頭支配層を代表した[[カルロス・アロヨ・デル・リオ]]が大統領に就任するが、アロヨ政権は[[第二次世界大戦]]においてドイツ資本の追放など、親米政策を採ったことと、任期中のインフレの進行などが、エクアドル人の民族主義を逆撫でした<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:123)]]</ref>。さらにアロヨ政権は間もなく大きな国難にぶつかることになる。
 
[[1941年]]に隣国のペルーと国境を接するアマゾン地域の領土問題が紛糾し、同年、両国の緊張は遂に[[エクアドル・ペルー戦争]]へと発展した。ペルーは領内における[[エクアドル軍]]の存在を侵略であると主張し、一方エクアドルはペルーこそが侵略者だと主張した。最終的に、1941年7月23日にペルーはエクアドルへの侵攻を開始した。[[ペルー軍]]は係争大挙して[[サルミーヤ川]]を渡河し、エクアドルの[[オロ県]]に進むと、係争地域の全てにおいて[[エクアドル軍]]を破り、エクアドルのオロ県と[[ロハ県]]の一部分(国土全体のおよそ6%)を占領した。ペルーはエクアドルに係争地域の領有権の主張を撤回することを要求し、[[ペルー海軍]]はグアヤキル港を封鎖し、エクアドル軍の補給を絶った。こうして数週間の戦闘の後、[[アメリカ合衆国]]とラテンアメリカ諸国による圧力により戦争は終わった。エクアドルとペルーは1942年1月29日に[[第二次世界大戦]]における、[[枢軸国]]との戦いを約束する[[リオデジャネイロ議定書]]で一致した。エクアドルはこの議定書でアマゾン地域の領有権を放棄し、ペルーはこの議定書により係争地域の25万km&sup2;<ref name=masuda,yanagida1999.168>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:168)]]</ref>{{#tag:ref|20万km&sup2;とする資料もある<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:317)]]</ref>。|group=註釈}}を獲得した<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:123-124)]]</ref>。この敗北により、アロヨ政権は孤立し、また後のエクアドル・ペルー間の関係も大きく悪化した。その後二度の戦争があり、両国間の緊張は続いたが、最終的に1998年にエクアドルは遂にこのアマゾンの失陥を正式に認めることになった。
 
== 軍政とポプリスモ ==
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