「吉本興業ホールディングス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎かつて存在した寄席・劇場・映画館: プリンスシアターは東京の劇場なので修正しました
185行目:
 
=== 戦災からの復興(昭和20年-) ===
終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。そして[[1948年]](昭和23年)[[12月]]に封切公開された大映映画「大島情話」(主演・[[坂東好太郎]] 監督・[[木村恵吾]])を皮切りに、次々と映画を製作していった。また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。さらに[[1946年]](昭和21年)[[10月]]には京都で[[進駐軍]]専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。[[1948年]](昭和23年)[[1月7日]]に現在の'''吉本興業株式会社'''が発足している。[[1949年]](昭和24年)[[5月14日]]に[[大阪証券取引所]](現・[[東京証券取引所]])、[[1961年]](昭和36年)[[10月2日]]には[[東京証券取引所]]に上場した。その一方で、[[1950年]](昭和25年)[[3月14日]]には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた[[吉本せい]]が死去した。
 
一方、[[林弘高]]率いる[[東京吉本]]は、戦後の[[1946年]](昭和21年)[[10月]]、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営と共に、デビュー当時の[[江利チエミ]]のマネジメントや[[力道山]]のプロレス興行を手がけていった。チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・[[久保益雄]]、母親が喜劇女優・[[谷崎歳子]]であり、両親共に東京吉本の所属だったことから、チエミも東京吉本の所属になったものと思われる。さらに[[1946年]](昭和21年)[[11月]]には、映画会社[[東映]]の前身の一つ、「[[太泉映画]]」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、「[[肉体の門 (1948年の映画)|肉体の門]]」(主演・[[轟夕起子]] 監督・[[マキノ雅弘|マキノ正博]]/[[小崎政房]])など数々の映画を製作した。また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや[[大江美智子 (2代目)|大江美智子]]の[[女剣劇]]を上演する一方、引き続き[[トニー谷]]、[[由利徹]]、[[海野かつを]]、[[ショパン猪狩]](後の[[東京コミックショウ]])ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」を始め多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には[[会社更生法]]の適用を受けるに至った。