「ジョン・バカン」の版間の差分

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戦争終結とともに、バカンはスリラーや小説を書くことと共に歴史的な事物について書くことに関心を転じた。1920年代半ばまで、彼はエルズフィールド(Elsfield)に住み、スコットランド歴史協会の会長やスコットランド国立図書館理事の職<ref name=GGBuch />を歴任した。また多くの大学と関係を深めてもいる。例えば[[ロバート・グレーヴズ]]は近傍のアイリプに住んでいたが、バカンの推薦によって新設された[[カイロ大学]]で教職に就いたことを述べている。また1927年の補欠選挙ではバカンはスコットランド大学合同選挙区から統一党の下院議員に選出された。政治的には連合王国を支持する伝統のなかで、[[イギリス帝国]]内でのスコットランドの国家としての向上を考えていた。議会演説のなかで次のように述べている。「私はすべてのスコットランド人がスコットランド民族主義者であるはずだと信じております。もしスコットランド議会が必要だということが証明されるならば…(中略)…スコットランド人は必ずやそれを支えるでしょう。」<ref>{{cite hansard | house=House of Commons | url=http://hansard.millbanksystems.com/commons/1932/nov/24/debate-on-the-address#S5CV0272P0_19321124_HOC_159 | date = 24 November 1932 | column = 261}}</ref>スコットランドにおける大恐慌の影響と潜在的に高い度合いで起きているスコットランドからの移民流出も同じ演説のなかに反映されている。「我々はギリシャ人のように、住むところではどこでも強勢を誇り、繁栄を謳歌しながらその背後に死せるギリシャを抱えることを望んではいません。」<ref>{{cite hansard | house=House of Commons | url=http://hansard.millbanksystems.com/commons/1932/nov/24/debate-on-the-address#S5CV0272P0_19321124_HOC_159 | date = 24 November 1932 | column = 267 }}</ref>彼はまたジョン・モーリーの''Life of Gladstone''に大きな影響を受けていることに気付いた。第二次世界大戦が始まって数月の頃にそれを読んだのである。彼は[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]が人々に物質主義や自己満足、権威主義に打ち勝つことを教えていると信じていた。のちにハーバート・フィッシャーやステア・ジローン、ギルバート・マレーに宛てた手紙の中で自分が「グラッドストン的な自由主義者になりつつある」ことを述べている。<ref>{{Harvnb| Parry| 2002| p=234}}</ref>
[[スコットランド統一自由教会]]が1929年に[[スコットランド教会]]と合同したのち、バカンはオックスフォードの長老派教会とロンドンの聖コロンバ教会両方の長老として活動し続けていた。1933年と1934年にバカンはスコットランド教会の全国総会におけるジョージ5世の名代に任命されている。
1930年以来、バカンは[[シオニズム]]に共感し、パレスティナ超党派議員連盟と関係していた。<ref>{{cite book| last=Defries| first=Harry| title=Conservative Party Attitudes to Jews, 1900–1950| publisher=Routledge| location=London| year=2001| pages=148| isbn=0-7146-5221-0}}</ref>文芸と教育への貢献が認められて、1932年1月1日に彼は[[コンパニオン・オブ・オナー勲章]]を国王からの私的な贈り物として授与された。<ref>{{London Gazette| issue=33785| startpage=12| date=29 December 1931| accessdate=9 February 2013}}</ref>