「浪乃花教天」の版間の差分

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体格は良くなかったが持ち前の負けん気と稽古が実り、[[1990年]]11月場所で新十両に昇進。その後、一時幕下に落ちたものの盛り返して、[[1992年]]9月場所で新入幕を果たした。4度目の入幕となった[[1994年]]11月場所では、10勝5敗と2桁勝利を記録し、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。なお同場所では、浪乃花が[[千秋楽]]の取組でもし負けていたら、史上初の三賞受賞者無しになるところであった。
 
[[1995年]]3月場所では、最高位となる東小結に進んだ。だが、6勝9敗と3点負け越し、三役経験はこの場所のみで終わっている(浪乃花は、三役以上との対戦経験が一度もないまま小結に昇進したが、これはとても珍しい事例であった)。突き押しを得意手とした取り口は、志に溢れて気風が良く、特に相手をぐっと睨みつける厳しい仕切りには人気があった。この所作は横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]](現・[[九重 (相撲)|九重]]親方)を髣髴とさせ、相撲雑誌で「ミニウルフ」とニックネームが付けられた事がある。
 
[[1996年]]3月場所での[[魁皇博之|魁皇戦]]に於いて左肘を痛め、この負傷が致命傷となって同場所から6場所連続負け越し。これにより、1997年3月場所では幕下にまで陥落してしまった。そして、同場所初日の取組を最後に27歳の若さで引退。[[年寄名跡]]を取得できなかったため、引退後、直ちに[[日本相撲協会]]から去った。