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競走馬時代は[[アイルランド]]で走り15戦3勝。一般戦での勝利以外はいずれもアイルランドの[[クラシック (競馬)|クラシック]]競走で、アイリッシュダービーはパトリオットキングとの[[同着]]優勝であった。競走馬引退後、種牡馬[[シアンモア]]の後継を探していた小岩井農場によって購買される。購買価格は[[1932年]]に日本へ輸出されていた全兄アスフオード<ref>こちらは2頭の重賞優勝馬を出すにとどまった。</ref>の4万7850円を大きく上回る6万円で、これは当時の最新鋭[[戦闘機]]1機分という大金だった。
 
2年目の産駒から[[ブランドソール]]が中山4歳牝馬特別(現・[[桜花賞]])に優勝し、早々に八大競走を制覇すると、その翌年には[[ミナミホマレ]]が[[東京優駿]](日本ダービー)を制した。1949年には[[トサミドリ]]、[[タチカゼ]]の2頭でこの年の牡馬クラシックを全て制する快挙を成し遂げた<ref>それ以前には[[ダイオライト]]が三冠馬[[セントライト]]で成し遂げていたのみだった。</ref>。その後も[[1954年]]には[[ハクリヨウ]]が日本競馬史上最初の[[JRA賞|年度代表馬]]と最良5歳以上牡馬、[[チエリオ]]が最良5歳以上牝馬を受賞するなど活躍。晩年に至るまで日本を代表する第一級の種牡馬であり続けたが、[[1955年]]秋、[[疝痛]]をこじらせて25歳で死亡した。
 
[[リーディングサイアー]]争いでは常に上位に顔を出したが、[[1949年]]の2位(1位[[セフト]])を最高に、最後まで首位獲得は成らなかった。しかし産駒の大レースでの強さにおいては当代随一を誇り、4頭の東京優駿優勝馬を筆頭とする産駒のクラシック競走通算15勝は、[[2000年代]]に入って[[サンデーサイレンス]]に破られるまで半世紀以上に渡って最多記録として保持され続けた。
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**ミスミナミ(1941年[[横浜特別|横浜特別・秋]])
*1938年産
**'''ブランドソール'''(1941年中山4歳牝馬特別)
**ロツクフオード(1942年[[目黒記念|目黒記念・春]])
*1939年産
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**トビサクラ(種牡馬、'''ハクチカラ'''の父)
*1943年産
**'''[[アヅマライ]]'''(1946年[[菊花賞|農林省賞典4歳馬]])
**アサフジ(1947年目黒記念)
**ヤマトナデシコ(1947年[[中山記念|中山記念・秋]])
*1944年産
**'''[[トキツカゼ]]'''(1947年[[皐月賞|農林省賞典4歳呼馬]]、[[優駿牝馬]]、[[カブトヤマ記念]])
**'''※[[顕彰馬]]'''
**エイシヤイン(1950年[[中山大障害|中山大障害・春]])