「クロアチアの歴史」の版間の差分

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[[File:Hrvatski skolski muzej Petar Kresimir IV 300109.jpg|thumb|left|200px|ペタル・クレシミル]]
 
トミスラヴ1世が[[928年]]に死去するとクロアチア人らの統一国家の屋台骨は揺らぐこととなるが、[[ペタル・クレシミル]](クレシミール4世とも){{enlink|Peter Krešimir IV of Croatia|a=on}}やその後継者息子[[ズヴォニミル]]{{enlink|Demetrius Zvonimir of Croatia|a=on}}の時代繁栄を迎えることとなる<ref name="ZB30">[[#図説バルカン|柴(2001)、p.30]].</ref>。しかし、ズヴォニミルの死後は王位を巡って諍いが生じる事となり、1076年以降は教皇が支配することとなった<ref name="yato69">[[#矢田|矢田(1977)、p.69]].</ref><ref name="yato79">[[#矢田|矢田(1977)、p.79]].</ref>。このため縁戚関係にあるハンガリー王[[ラースロー1世]]がこの裁定を依頼され諍いを解決{{#tag:ref|ただし、『東欧史』によればラースロー1世はハンガリーの拡大を狙い、なおかつハンガリー教会にローマ教会を凌ぐ力を与えるためにローマ教皇と戦ったとされており、1089年、スラヴォニアを征服した後、クロアチア支配を目論んだがこの野望を阻止しようとしたビザンツ帝国とヴェネツィアが動いたことによりクマン族が襲撃、ラースロー1世は撃退されたとしている<ref name="yato69">[[#矢田|矢田(1977)、p.69]].</ref>。|group=#}}、さらに[[1094年]]には[[ザグレブ]]に司教座を開設している。しかしラースロー1世が死去するとまた諍いが生じる事となったが、これをラースローの後継者であった[[カールマーン1世]]が鎮圧、カールマーン1世がハンガリー王位を継ぐ事となり、さらに1097年、カールマーン1世はクロアチアを占領<ref name="yato79">[[#矢田|矢田(1977)、p.79]].</ref>、[[1102年]](1106年とする説あり<ref name="yato79">[[#矢田|矢田(1977)、p.79]].</ref>)にはクロアチア、ダルマチア王位も兼ねることとなり、クロアチアはハンガリーの支配下となった。ただし、カールマーン1世はクロアチアの自治を認めたため、クロアチア人貴族から「[[バン (称号)|太守(バン)]]」が任命されていた。一方でダルマチアにおけるビザンツ宗主権下の港湾都市は[[アドリア海]]、[[地中海]]を結ぶ航路の要衝であったため、外部との勢力争いが生じており、ザダルはヴェネツィアの勢力下となっていた<ref name="B93-4">[[#柴(バルカン史)|柴(1998)、pp.93-94]].</ref>。
[[File:KraljTomislav.jpg|thumb|200px|ズヴォニミル]]