「蒲生秀行 (侍従)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
[[天正]]11年([[1583年]])、[[蒲生氏郷|蒲生賦秀(氏郷)]](数年後「氏郷」に改名)の[[嫡男]](次男あるいは長男)として生まれる。生来から病弱で、氏郷は同じ幼名を与えた鶴千代を[[京都]]の[[南禅寺]]に入れて[[僧]]にし、修行させて武将の任に耐えられるようになったら世継ぎとし、耐えられないようなら僧として過ごさせると戒めていたという<ref name="会津藩17">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P17</ref>。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])、父・氏郷が急死したために家督を継ぐ<ref name="会津藩17"/>。この時、[[羽柴氏|羽柴]]の名字を与えられた<ref>村川『日本近世武家政権論』、P28</ref>遺領相続について、[[太閤]]・[[豊臣秀吉]]の下した裁定は、[[会津藩|会津領]]を収公して、改めて[[近江国|近江]]に2万石を与えるというものだったが<ref group="注釈">秀吉は徳川家康に備えて会津領に蒲生氏を封じたが、秀行(秀行の正室は家康の娘であり、家康は若い秀行を後見役でもあった)では対抗できないと考え、氏郷時代の検地に不正があったとして、[[前田利家]]や[[毛利輝元]]に諮問する形で減封を図ろうとした。蒲生氏が近江へ減封されれば家康には大打撃であり、後見の立場上、不正を認められたら自分にも非があることになるから豊臣政権内における立場は弱くなる。ところが、利家の次男・[[前田利政]]も氏郷の娘を正室としており、検地の不正を認めれば前田や毛利も将来的に減封される可能性があったため、利家らは大減封には反対し穏便な処置を求めたため、秀吉はこの時点での秀行減封を諦めた。</ref><ref name="会津藩18">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P18</ref>、[[関白]]・[[豊臣秀次]]が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津92万石の相続を許された<ref group="注釈">この一件で太閤と関白による二元統治の機能不全が露呈されたことは、同年に発生した[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]の一因とされている。</ref>。