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== デ・ハビランド コメット ==
コメットの開発から就航の経緯については、[[デ・ハビランド DH.106 コメット]]の頁を参照のこと。
=== ブラバゾン委員会 ===
[[第二次世界大戦]]中、イギリス政府は[[アメリカ合衆国]]との取り決めで、欧州戦線に投入する重[[爆撃機]]の生産に集中することになり、一方のアメリカは[[輸送機]]供給を担当することになった。
 
アメリカはこの取り決めにより、高性能旅客機の設計をベースとした軍用輸送機を大量生産した。主力双発機[[DC-3|C-47]](ダグラスDC-3の軍用型)のみならず、[[DC-4|C-54]](ダグラスDC-4の軍用型)や、与圧機構装備の[[ロッキード コンステレーション|C-69]](ロッキード・コンステレーションの軍用型)など、当時最大級の4発の大型プロペラ輸送機をも生産・供給し、その過程で後年にまで至る大型輸送機の製造・運用ノウハウを蓄積していったのである。
 
対ドイツ戦での機材供給合理化には両国分担も適切であったが、イギリスからすれば、自国メーカーが爆撃機生産に集中することが、戦後の民間輸送部門における輸送機のノウハウ構築に寄与しないのは明らかであった。
 
当時の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]政権は、戦後の民間航空分野でも自国の先進性を保持し、その市場のニーズを探る目的で、英国航空界の指導的立場にあったロード・ブラバゾン・タラを委員長とする[[ブラバゾン委員会]]を[[1943年]]2月に立ち上げ、具体的なプランを検討させることになった。
 
翌[[1944年]]にはタイプ1からタイプ4までの旅客機案がまとめられ、各々が国内の航空機メーカーに提示された。
 
===コメットの開発と就航===
[[Image:RM2 aka De Havilland Ghost.jpg|thumb|240px|コメット Mk.I に装着された物と同系の「ゴースト」エンジン]]
後にコメットと呼ばれる機体は、当初タイプ4として提案されたカテゴリー、即ち超高速で[[大西洋]]横断飛行可能な「ジェット郵便輸送機」として計画されていた(郵便物は軽荷重で済み、旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機より低く済む)。
 
しかし、同国初ジェット[[戦闘機]]の開発に成功していた老舗航空機メーカー・[[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハビランド]]社は、より大型化した「ジェット旅客機」という全く新しいジャンルに挑むことを表明し、軍需省 ([[:en:Ministry_of_Supply|Ministry of Supply]]) から2機、[[英国海外航空]](BOAC、現[[ブリティッシュエアウェイズ]])から7機の仮発注を受け、[[国家プロジェクト]]として[[1946年]]9月に開発が始動した。
 
計画着手時には24席クラスの無尾翼機案が有力だったが、[[1946年|同年]]、デ・ハビランド社がドイツの[[メッサーシュミットMe163|Me163「コメート」]]を摸して開発した無尾翼高速研究機 [[デ・ハビランド DH.108|DH.108]]は試験飛行中に墜落、同社創業社長ジェフリー・デ・ハビランド ([[:en:Geoffrey_de_Havilland|Geoffrey de Havilland]]) の息子で事故機の操縦者だったジェフリー・ジュニアは死亡した。このためデ・ハビランド社長にとって、世界初のジェット旅客機を自らの手で早期に完成させることは悲願になり、機体は堅実な緩後退翼案に転換すると共に、融通性重視で自社製[[ターボジェットエンジン]]「ゴースト」([[:en:De_Havilland_Ghost|Ghost]]) エンジンが選定された。
 
イギリスで開発され、[[第二次世界大戦]]終結時には既に十分な実績を積んでいた遠心圧縮式 ([[:en:Centrifugal compressor|centrifugal compressor]]) ターボジェットエンジンだったが、機械的限界から推力 5,000 [[重量ポンド|ポンド (lbf)]](≒22 k[[ニュートン|N]], 2,300 [[キログラム重|kg]]) 以上に向上する余地が殆どなく、当時最強を誇ったデ・ハビランド「ゴースト」([[:en:De_Havilland_Ghost|De Havilland Ghost]])や[[ロールス・ロイス ニーン|ロールス・ロイス「ニーン」]]([[:en:Rolls-Royce Nene|Rolls-Royce Nene]]) とて例外ではなかった。
 
ジェットエンジンの改良面で、遠心式よりも構造は複雑化するが、小径で応答性に勝り、制御パラメータがより多く取れ、発展性のある軸流式 ([[:en:Axial_compressor|axial compressor]]) への転換は技術的必然であった。しかし後退翼と同様に、軸流式ターボジェットエンジンの分野で先陣を切っていたドイツの技術者は、ドイツ敗戦と同時に米ソが奪い合う形で自国に招聘していたため、英仏は独自開発を余儀なくされ、スタートラインから大きく出遅れていた。コメットの設計着手時に基礎研究段階にあった、軸流式エンジンの[[ロールス・ロイス エイヴォン|ロールス・ロイス「エイヴォン」]]([[:en:Rolls-Royce Avon|Rolls-Royce Avon]])、並びにアームストロング・シドレー「サファイア」([[:en:Armstrong Siddeley Sapphire|Armstrong Siddeley Sapphire]]) の開発は難航し、実用化は[[1950年]]以降になると予想された。それらの完成を待っていてはコメット計画全体が遅延するため、敢えて小出力の「ゴースト」で試作が進められることになった。
 
機体の規模に対して、4発をもってしても推力が不足する「ゴースト」の採用は、設計全体に影響を及ぼした。コメットが未だ製図板上にあった[[1947年]]末に、米[[ボーイング]]はドイツから受け入れた亡命技術者達に青天井の予算を与え、戦時中のプロジェクトを継続させた結果、鋭後退翼を持つ超革新的な大型ジェット爆撃機 [[B-47 (航空機)|B-47]] を進空させると共に、後に主流となる主翼[[パイロン]]吊下式のエンジン搭載法を特許で固めてしまった。このため、デ・ハビランド社の主任技師ロナルド・ビショップ (Ronald Bishop) は、空気抵抗の低減を兼ねて主翼付根に大径な遠心式エンジンを2基ずつ埋め込む回避策を選んだ。
 
推力の不足を補い、高[[与圧]](高度 35,000 ft=約 10,000 m 時に 0.75 気圧=2,700 m 相当を保つ)と、-60 度Cに達する低温に耐える必要から、機体には[[デ・ハビランド モスキート|「DH.98 モスキート」]]([[:en:De_Havilland_Mosquito|Mosquito]]) など同社のお家芸とも言える木製高速機で十分な経験を積んだ、[[接着剤#接着剤の種類#有機系接着剤#合成系接着剤|エポキシ接着剤]][[:en:wiki/Redux_%28adhesive%29|「リダックス」]]が多用され、新開発の[[ジュラルミン|超々ジュラルミン]]薄肉[[モノコック]]構造による徹底した軽量化と、表皮の平滑化が図られた。後に総ての大型機に装備される[[ボギー台車|ボギー式]][[降着装置|主輪]]を初採用したのもコメットで、これらは[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]] (RAE) との共同開発である。
 
プロトタイプ1号機([[機体記号]] G-5-1、後にG-ALVG)の初飛行は、ジェフリー・デ・ハビランドの57回目の誕生日である[[1949年]][[7月27日]]に、チーフ・テストパイロットの[[ジョン・カニンガム]]元空軍大佐によって行われた。当時性能強化を重ねて爛熟期にあったアメリカのレシプロ4発旅客機、[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]] [[DC-6|DC-6B]] や [[ロッキード コンステレーション|ロッキード「スーパーコンステレーション」]] よりもはるか高速の700km/h超に達する機体で、追従者は他にない、正に世界初の偉業であった。試作2号機の処女飛行は翌[[1950年]]7月27日に同じメンバーで為され、G-ALZK の登録記号で BOAC に即納された。
 
速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムの殆ど総てを新規開発する必要があり、英空軍・BOAC と協働の上、航路開拓も含めて約2年の入念な準備期間が置かれ、その間に量産型 Mk.1 も続々と進空して世界各地へ訓練飛行に赴き、行く先々で羨望を浴びた。
 
量産型 Mk.I 1号機 G-ALYP は、BOAC によって[[1952年]][[5月2日]]に[[ロンドン]] - [[ヨハネスブルグ]]間に就航した。世界初のジェット旅客機による商用運航は、レシプロ機から所要時間を一気に半減させてみせた。
 
乗客数こそ在来機と同等かそれ未満だった(例えばレシプロ機最大級のDC-6やコンステレーションに比べると旅客収容力では大きく劣った)が、5割以上優速なだけでなく、[[レシプロエンジン]]と[[プロペラ]]由来の騒音や振動から解放され、天候の影響を受けにくい[[成層圏]]を飛行するため揺れも少ないなど、快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、「まるで空中に静止しているような乗り心地」「全く別の乗り物」と評された。信頼性と定時発着率の高さ、整備コストの低さも実証され、初年度だけで3万人が搭乗する人気を博した。[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス女王]]一家もコメットでヨーロッパ遊覧飛行を楽しみ、世界で初めてジェット機に乗った王族として記録された。
 
同年7月8日には同じ G-ALYP が航路試験で[[東京国際空港|羽田空港]]に飛来し、関係者を試乗に招待すると共に、直近100年間で旅客の移動速度が数百倍になった象徴に[[駕籠]]と並べて記念撮影が行われるなど、イギリスの航空技術の高さを誇示する宣伝活動を行った。占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代の到来に為す術もなく航空分野から離れていた日本の旧航空技術者達は、コメットの銀翼と快音に切歯扼腕したという。
 
航路を全世界へと順次拡大し、[[ヨーロッパ航空航路#南回りヨーロッパ線|南回り航路]]経由で[[ヒースロー空港|ロンドン]] - [[東京国際空港|東京]]間にも定期就航し、所用時間を88時間から33時間に減じた。[[エールフランス]]や[[トランス・カナダ航空]]などでも運用が開始され、懸念された[[燃費]]も、[[ケロシン]]系ジェット燃料がレシプロエンジン用[[オクタン価|ハイオクタン]][[ガソリン]]よりも低廉なことや、高い満席率による収益で相殺されることが分かり、就航当初の様子見気分は払拭された。
 
[[日本航空インターナショナル|日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]など世界中の[[航空会社]]から50機以上の受注を抱え、増産に追われるデ・ハビランド社の前途は洋々であるかに見えた。初期型の Mk.I (36席)に続き、出力向上型「ゴースト」を搭載した増席改良型 Mk.IA (44席)を各々10機生産した後、[[1953年]]中には満を持して大推力の軸流式ターボジェット「エイヴォン」に換装し、性能を大幅に引き上げた本格量産型の Mk.II に移行する予定だった。
 
== 離着陸時の事故 ==