「古方派」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
5行目:
[[名古屋玄医]]は支那で起こった[[易水学派]]と[[錯簡重訂学派]]の影響をうけ、[[扶陽抑陰]]を治療指針とする独自の生命観に立って古典への回帰を説いた。その延長線上の一つに『[[傷寒論]]』・『[[金匱要略]]』があった。名古屋玄医は日本で最初の『[[金匱要略]]』注解書を著した。名古屋玄医の『[[丹水子]]』には「沫泗の間、古は楊墨路に塞る。盂子辞して之を闢いて廓如たり。南陽の岐、後に路に塞る者は劉朱の徒にして、陰虚の説を言う者、是なり。我ひそかに盂子に比す」と記される。この名古屋玄医による学説は[[伊藤仁斎]]の[[古義学]]の台頭([[宋学]](宋代儒学)の代表である理論的な[[朱子学]]への批判)とほぼ時期を同じくしている。
 
'''古方派'''の医者として、誰が含まれるかさまざまな説があり、一定していないが、江戸時代を代表する[[古方四大家]]としては、[[後藤艮山]]・[[香川修徳|香川修庵]](香川修徳とも)・[[松原一閑斎]]・[[山脇東洋]]の四名が揚げられる。(香川修庵・山脇東洋・松原一閑斎・吉益東洞の四名を古方四大家とする説もある。)
 
[[後藤艮山]]は[[一気留滞説]]を提唱した。[[食餌療法]]、[[灸]]、[[熊胆]]、[[蕃椒]]、[[温泉]]、[[懸瀑]]、[[順気剤]]、[[民間療法]]などの多岐にわたる治療法を行った。