「アーサー・マイケル」の版間の差分

編集の要約なし
(from en:Arthur Michael 02:11, 17 June 2013‎)
 
'''アーサー・マイケル'''(Arthur Michael、[[1853年]][[8月7日]] - [[1942年]][[2月8日]])は、[[マイケル付加]]でよく知られている[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の有機[[化学者]]である<ref>{{cite doi|10.1021/ed048p243}}</ref><ref name="Fieser, Louis 1975 331 – 366">{{Cite journal |last1=Fieser |first1=Louis F. |year=1975 |chapter=Arthur Michael |url=http://www.nap.edu/books/0309022401/html/330.html |editor=National Research Council |editor-link=United States National Research Council |title=Biographical Memoirs |series=[[National Academy of Sciences]] |volume=46 |location=Washington, DC |publisher=[[National Academies Press]] |pages=330–367 |isbn=0-309-02240-1 |oclc=10550426}}</ref><ref>{{cite doi|10.1021/ed079p264}}</ref>。
 
== 生涯 ==
1853年、[[ニューヨーク州]]の[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]にて裕福な不動産投資家であったジョンとクララ・マイケルの子どもとして生まれた<ref name=Tokoroyama>{{cite doi|10.1002/ejoc.200901130}}</ref>。化学は地元の教師と彼の手製の実験室で学んだ。病気により[[ハーバード大学]]に通うことを断念したが、1871年に[[ヨーロッパ]]を旅行した際に[[ドイツ国|ドイツ]]に[[留学]]することを決心した。
 
[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の[[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン|ホフマン]]化学実験室で研究したのち、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]では[[ローベルト・ブンゼン]]に、2年後には再度ホフマンに師事した。彼はそのとき[[留年]]のために、[[パリ]]の薬科大学で[[アドルフ・ヴュルツ]]に、[[サンクトペテルブルク]]の[[ドミトリ・メンデレーエフ]]に師事した。
 
1880年にアメリカに戻り、1882年から1889年まで[[タフツ大学]]で化学の[[教授]]となった。タフツ大学では、1888年に彼の学生であった[[ヘレン・セシリア・デ・シルバー・アボット]]と出会い、結婚した。数年後に夫妻は[[イングランド]]の[[ワイト島]]に渡って自作の研究所で研究を行い、1894年には再度タフツ大学に戻り1907年には[[名誉教授]]となった。5年後に退官したが、1912年には[[ハーバード大学]]で化学の教授となり、1936年まで勤めた。
 
1942年2月8日、[[フロリダ州]][[オーランド]]で死去<ref name="Fieser, Louis 1975 331 – 366"/>。妻は1904年に死去した。彼らに子どもはいなかった。
 
==研究==
 
== 活動、栄誉 ==
* [[米国科学アカデミー]]会員 (1889)
 
== 脚注 ==
| PLACE OF DEATH =
}}
 
{{DEFAULTSORT:Michael,まいける Arthurああさあ}}
[[Category:1853年生]]
[[Category:1942年没]]
[[Category:アメリカ合衆国の化学者]]
[[Category:化学史]]
[[Category:Category:米国科タフツ大アカデミー会の教員]]
[[Category:ハーバード大学の教員]]
[[Category:米国科学アカデミー会員]]
[[Category:バッファロー (ニューヨーク州)出身の人物]]
[[Category:1853年生]]
[[Category:1942年没]]
37,316

回編集