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== 概要 ==
[[藤原内麻呂]]の子の[[藤原真夏|真夏]]の孫にあたる[[藤原家宗]]が、伝領地である[[山城国]]宇治郡日野([[京都府]][[京都市]][[伏見区]])に[[弘仁]]13年([[822年]])に[[法界寺]]を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を伝承し、[[永承]]6年([[1051年]])、子孫の[[藤原資業|資業]]があらためて薬師堂を建立し、別名を日野薬師とも称した。これがその後資業を始祖とするの[[氏寺]]となり、名字も日野と名乗るようになった。
 
[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])に生まれた[[浄土真宗]]開祖の[[親鸞]]は、この一族の[[日野有範|有範]]の子であるとされる。[[親鸞]]は娘[[覚信尼]]を同族の[[日野広綱|広綱]]に嫁がせた。その子孫が門主として[[本願寺]]を率いた[[大谷家]]である。
 
日野一門はいずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降、名家の家柄として定着した。[[極位極官|極官]]はおおむね[[中納言]]であったが、[[鎌倉時代]]に[[伏見天皇]]に重用された[[日野俊光|俊光]]がはじめて[[大納言|権大納言]]にまで昇り、日野流の[[嫡流]]の地位を確立した。[[元亨]]2年([[1324年]])に発覚した[[後醍醐天皇]]の武力倒幕計画である[[正中の変]]に積極的に参画したことで著名な[[日野資朝|資朝]]は俊光の子であるが、父俊光が[[持明院統]]の重臣であったにもかかわらず、あえて[[大覚寺統]]の傍流である後醍醐に仕えたために父から勘当されている。同様に後醍醐に仕え、[[元徳]]3年([[1331年]])に発覚した第2次の倒幕計画[[元弘の乱]]に参画した[[日野俊基|俊基]]は俊光日野流家系からは傍流の出身である。
 
[[建武の新政]]のもとで、[[足利尊氏]]が後醍醐と決定的に対立して軍事衝突にいたった際、日野家出身の[[醍醐寺]][[三宝院]][[賢俊]]が[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]])の[[光厳天皇|光厳院]]の[[院宣]]を尊氏が獲得を仲介したことで、後醍醐と対抗する大義名分を得たことから、日野家と[[足利将軍家|足利家]]の結びつきが生じた。賢俊は「将軍門跡」とあだ名されるほどの尊氏の信任を得た。また尊氏が擁立した[[後光厳天皇]]からとで日野一門は重用された日野流は公家の分家の創立が低調となった時代にもかかわらず[[裏松家|裏松]]・[[烏丸家|烏丸]]・[[日野西家|日野西]]など多くの分家を創出した。[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]の[[正室]]であった[[日野業子|業子]]及び[[日野康子|康子]](裏松家出身)以来、将軍(室町殿)の[[正室]]は日野一門から出す例となり、4代[[足利義持|義持]]の[[正室]][[日野栄子|栄子]]、6代[[足利義教|義教]]の[[正室]][[日野宗子|宗子]]、8代[[足利義政|義政]]の[[正室]][[日野富子|富子]]、9代[[足利義尚|義尚]]の[[正室]](実名不詳、[[日野勝光|勝光]]の娘)、11代[[足利義澄|義澄]]の[[正室]](実名不詳)と6代にわたって将軍の[[正室]]を輩出している。一時、義政の継嗣に擬せられた[[足利義視|義視]]の[[正室]]も勝光・富子の妹(実名不詳)である。
 
一方で、日野一門の隆盛は、[[花の御所|室町殿]]にとって重荷となる側面もあり、6代将軍[[足利義教]]は日野一門の勢力抑制に乗り出す。日野本家もともと正室日野一門のあった重子も退けられ、代わって[[嫡流正親町三条公雅]]の娘である[[正親町三条宗子|宗子]]が正室となった。日野流の宗家である[[日野有光|有光]]も、義教の不興を買って失脚し、所領没収の憂き目を見ている。家督と所領は有光の弟[[日野秀光|秀光]]が代わって継いだが[[永享]]4年([[1432年]])に死去し、日野流に属する[[広橋家]]の[[広橋兼郷|兼郷]]の子息[[日野春龍丸|春龍丸]]が跡を継いだ。しかし、春龍丸もその年のうちに死去し、結局、日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。
 
失意の有光は、南朝復興を目指す[[後南朝]]と結んで[[嘉吉]]3年([[1443年]])に武装して[[禁裏]]へ乱入し、[[三種の神器]]の一部を奪う[[禁闕の変]]を起こすことになった。有光らは[[比叡山]][[延暦寺]]の[[根本中堂]]に立て籠もったがやがて殺され、事件とは無関係であった有光の子[[日野資親|資親]]も殺害されて、日野家はいったん完全に断絶した。
 
義教が嘉吉元年([[1441年]])に[[赤松満祐]]により殺害されて、その行き過ぎた専制政治に対して原状を回復しようとする動きが起き、この一環として日野家の再興もはかられることになった。新しい日野家の当主となったのは、やはり日野一門であ流に属す日野[[裏松家]]の当主で義教の指示により暗殺された[[日野義資|義資]]の孫[[日野勝光|勝光]]であった。義教の跡を継いで将軍となった7代[[足利義勝|義勝]]・8代[[足利義政|義政]]の母[[日野重子|重子]]が裏松家の出身であったことによるものと考えられる。その後、勝光の妹富子が義政の正室となり、勝光は義政・富子のもとで強大な政治的影響力を握り、本来名家の[[家格]]では昇進することのできない[[左大臣]]にまで昇り「押大臣(おしのおとど)」と称された。勝光の死後は子息[[日野政資|政資]]が継いだが早世。政資の跡は[[徳大寺実淳]]の次男[[日野内光|高光]](のち澄光、内光と改名)が継いだが、彼は[[桂川原の戦い]]に参加し戦場で戦死した。家運はしだいに傾き、さらに内光の子息[[日野晴光|晴光]]の嗣子である[[日野晴資|晴資]]も下向していた[[駿河国|駿河]]において父に先立って早世する。その後の晴光の死により日野家は、またもや断絶することとなった。
 
しかし、晴光の未亡人であり晴資母である春日局([[陽春院]]。日野晴資の生母)は、13代将軍[[足利義輝]]の[[乳人]]として[[室町幕府]]に一定の政治的影響力を有しており、春日局の尽力と義輝の庇護により日野家の経営は維持された。義輝は春日局の守る日野家に、同じ日野流の[[広橋家]]([[広橋兼郷]]の子孫)から養子[[日野輝資|輝資]]を迎えて、日野家を継承させた。成人した輝資は栄進して[[大納言|権大納言]]にいたった。
 
輝資は、[[出家]]して唯心と名乗ったのちは、[[徳川家康]]の側近のひとり([[駿府城]]に出仕し、[[近江国]][[蒲生郡]]に新たに1,030石余の所領を与えられた)として、[[朝廷]]と[[幕府]]の双方に強い影響力を及ぼす活動を行っている。輝資の子孫は[[朝廷]]に仕える[[堂上家]]と、幕府に仕える[[高家]]に分かれた。
 
輝資は、[[出家]]して唯心と名乗ったのちは、[[徳川家康]]の側近のひとり([[駿府城]]に出仕し、[[近江国]][[蒲生郡]]に新たに1,030石余の所領を与えられた)として、[[朝廷]]と[[幕府]]の双方に強い影響力を及ぼす活動を行っているした。輝資の子孫は[[朝廷]]に仕える[[堂上家]]だけでなく、幕府に仕える[[高家]]をもかれ立させた。
[[江戸時代]]の日野家(堂上家)の家禄は1,034石であった。[[明治|明治時代]]にいたり[[華族]]制度のもとで[[日野資秀|資秀]]が[[伯爵]]を授けられた。