「ドイツ国大統領」の版間の差分

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[[1933年]][[1月30日]]にヒトラーが首相に就任し、2月28日にヒトラーの要請を受けたヒンデンブルクはヴァイマル憲法の基本的人権に関する条項を停止する大統領緊急令「[[国民及び国家の保護のための大統領緊急令]]」([[:de:Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat|de]])を布告した<ref name="阿部(2001)221">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.221]]</ref>。ついで[[3月24日]]には[[ドイツ国家人民党]]と[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の協力を得て憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで[[全権委任法]]を国会で可決させる。これにより、憲法をのぞくあらゆる法律の制定権限が首相に認められた<ref name="阿部(2001)226">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.226]]</ref>。さらに一党独裁体制を構築した後の[[1934年]]1月30日には憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで国家新構成法を制定し、その中で「政府は憲法を制定できる」と定めた<ref name="南(2003)21">[[#南(2003)|南(2003)]]、p.21</ref>。
 
これらの処置によりヴァイマル憲法は事実上死文化して国会も無力化し、ヒトラーは独裁的権力を持つようになる<ref name="阿部(2001)226">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.226]]</ref>。しかし憲法上の大統領の権限については浸食せず、そのため首相・閣僚任免権や国軍の最高指揮権は依然としてヒンデンブルクにあり、首相ヒトラーとの[[二頭政治]]はヒンデンブルクの死まで続いた<ref name="阿部(2001)226"/>。しかし、すでに病体であったヒンデンブルクはヒトラー首相が全権委任法に基づいて政党新設禁止法を制定などの一党独裁体制を確立する措置に対して強い行動を起こさなかった
 
1934年6月21日には国軍最高指揮権と首相任免権を有するヒンデンブルクがヒトラーに対して[[突撃隊]]問題を解決できないならば大統領権限で戒厳令を布告し、ヒトラーの権限を陸軍に移すと通達しており、これによりヒトラーは突撃隊粛清の決意を固めて[[長いナイフの夜]]の粛清を行ったとみられる<ref name="阿部(2001)274">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.274]]</ref>。
{{-}}
 
=== 首相との統合 ===
[[file:RGBL I 1934 S 0747.png|thumb|180px|1934年8月2日の官報に載る元首法]]