「桜緋紗子」の版間の差分

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再開された宝塚の[[越路吹雪]]、[[淡島千景]]、[[乙羽信子]]、[[久慈あさみ]]らが桜の名を聞き店に立ち寄った事で、[[銀座]]四丁目に共同で宝塚ファン向けの[[ブロマイド]]や[[土産物]]を扱う「カトレア」を開店。カトレアは当時桜が好きだった[[ラン科|蘭]]の花から名付けたものだが、東京では初めての店名であったという。宝塚グッズは売れに売れ店は大盛況であったが、商売抜きに宝塚生徒とファンの集いや、現役生徒と卒業生の合同公演を企画するなどで利益は出なかった。
 
しかし愛する宝塚のため、宝塚卒業生の会「宝友会」を結成した。宝塚[[OG]]は結束が固く退団後も交友が続き、現在も年1回開かれる「宝友会」総会には数千人が集うという。[[1951年]]自動車事故に遭い足を骨折、これを機に店は畳む。[[日本放送協会|NHK]][[ラジオドラマ]]で復帰後、本流と新生が合流した新派にも復帰。[[1961年]]フリーとなり[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』や『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]』などに出演。[[1965年]]2月、人生の不安感から芸能界を引退、4950歳で仏門に入ると発表すると大騒ぎとなった。
 
[[鎌倉]]の[[長勝寺 (鎌倉市)|長勝寺]]で剃髪、得度式を行い「小笠原法佳」となり[[箱根町|元箱根]]・日輪寺で尼僧生活の後、「小笠原英法」と改め[[滋賀県]]・[[近江八幡市]]の山頂にある[[日蓮宗]]唯一の[[門跡]][[尼寺]]・[[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]]に入る。執事長となり以降37年間、訪れる人々の[[人生相談]]などに応じその名を知られた。