「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の版間の差分
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激化する民族運動を押さえきれないチェコスロバキア政府は[[1939年]][[1月]]、ドイツに協力要請を行った。しかしドイツ側の交換条件は苛烈を極め、チェコスロバキア政府は支援をあきらめざるを得なかった。チェコスロバキア政府は弾圧に転じ、[[3月6日]]にはカルパティア・ルテニアの自治政府、[[3月9日]]にはスロバキアの自治政府を解散させた。
ヒトラーはこの機にチェコスロバキアを制圧することを決め、[[3月13日]]にスロバキア自治政府のティソをベルリンに呼び寄せた。ヒトラーはティソにスロバキア独立の宣言とドイツによる[[保護国]]化を要求し、拒否すればドイツ軍が介入すると脅した。ティソは応諾し、[[3月14日]]に[[ブラチスラヴァ]]で[[
しかし、ハンガリーがこの機をとらえてカルパト・ウクライナに侵攻を開始した。チェコスロバキア大統領[[エミール・ハーハ]]はドイツに支援を求め、[[3月15日]]に[[ベルリン]]の[[総統官邸]]を訪問した。しかしヒトラーからの提案はチェコスロバキアからドイツへの併合要請文への署名であり、すでにドイツ軍への侵攻命令を下したと恫喝した。心臓病を抱えていたハーハは卒倒したが、医師[[テオドール・モレル]]の強心剤注射で蘇生した。ハーハは併合宣言文に署名し、ここにチェコスロバキア共和国は消滅した。同日午前6時、チェコスロバキアの[[ボヘミア]]・[[モラビア]]にドイツ軍が進駐し、[[3月16日]]にはスロバキアにも進駐した。カルパト・ウクライナも同日ハンガリーによって併合され、三日で消滅した。
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* [[ミュンヘン会談]]
* [[ウィーン裁定]]
* [[
* [[ヨゼフ・ティソ]]
* [[宥和政策]]
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