「御土居」の版間の差分

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「出版図書に依存して「寛永期」としていた「土居」の語の初出を調査により訂正」というのであれば、寛永期とする出典を明らかにした上で、WP:NORに留意した編集をお願いします。
m +出典
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1920年(大正9年)に京都府が行なった実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状であった。土塁の外側(西部一条通以南では内側)に沿って堀があり、その幅は10数m、深さは最大約4m程度であった。これら堀の西側の多くは既存の紙屋川を利用し、また東部では鴨川を代用した。この土塁の出現により平安京では実施されなかった「羅城」が初めて実現したと言える。土塁のための土は膨大な量が必要だったと推測されるが、どのように調達されたのか未だ解明されていない。
 
御土居の上には[[竹]]が植えられていた。[[ルイス・フロイス]]の『日本史』によると、秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった<!--ref>中村武生 『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)26ページ--</ref>また御土居の内部から[[石仏]]が出土することがあるが、その理由は不明である。
 
==建造の目的==
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==歴史==
===建造===
御土居の建造が始まったのは[[1591年]]([[天正]]19年)の1月から閏1月(太陰暦)ごろである。同年の3月ごろにはほぼ完成していた、との記録がある{{要出典|date=2013年8月|title=そのことを記す史料名は?またその具体的記述は?}}<!--ref>中村武生 『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)の20ページにおいて、『三藐院記』などの記載を引いて考察されています--><!--それならそのことをここに明記すべきでは?--/ref>。当時の京都では東山大仏、寺町など多くの工事が並行して行なわれていた。
 
===江戸時代===
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1965年(昭和40年)史跡指定
*上京区馬喰町 ([[北野天満宮]]境内)
これら指定地以外にも、北野中学校校庭(中京区西ノ京中保町)や[[大宮交通公園]](北区大宮西脇台)<!--、[[廬山寺]]墓地(上京区)など--><!--上記、上京区北之辺町(廬山寺)と異なるのですか?-->に御土居が残っている。
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画像:OdoiOmiya.jpg|大宮土居町の御土居。中央の凹地が堀。土塁は左側