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'''竹御所'''(たけのごしょ、[[建仁]]2年([[1202年]]) - [[天福 (日本)|天福]]2年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1234年]][[8月23日]]))は、[[鎌倉時代]]初期の女性。[[鎌倉幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼家]]の娘。位記の名は'''鞠子'''。[[妙本寺]]の寺伝よれば'''媄子'''(よしこ)。[[一幡]]の同母妹、[[公暁]]、[[栄実]]の異母妹、[[禅暁]]とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)と考えられている。
 
== 生涯 ==
母は『[[尊卑分脈]]』では[[源義仲]]の娘となっているが、「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の[[比企氏]]邸跡であることから、実際の母は[[比企能員]]の娘[[若狭局]]と考えられる。
 
誕生の翌年に[[比企能員の変]]が起こり、頼家は[[北条氏]]によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺された。[[建保]]4年(1216年)3月5日、祖母・[[北条政子]]の命により、14歳で叔父の[[源実朝]]の[[御台所]]・[[坊門信子]]に謁見し、その[[猶子]]となる。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一[[源頼朝]]の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として[[御家人]]の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。
 
[[寛喜]]2年([[1230年]])、28歳で13歳の第4代[[征夷大将軍|将軍]][[藤原頼経]]に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に、源氏将軍の後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、[[難産]]の末に男子を[[死産]]、本人も33歳で死去した。彼女の死により頼朝の血筋は完全に断絶した。
 
[[藤原定家]]の[[日記]]『[[明月記]]』によると、竹御所死去の報がもたらされると鎌倉武士たちは源氏将軍の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった幕府御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家はこのことに対し「[[平氏|平家]]の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べている。『[[吾妻鏡]]』[[嘉禎]]元年七月二十七日条に「竹御所の姫君」が竹御所の喪に服したことを記しており、竹御所の養女と見られる。
 
竹御所の墓は[[比企氏|比企]]一族の[[菩提寺]]である[[妙本寺]]にある。
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*[[比企能員の変]]
 
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[[Category:鎌倉時代幕府将軍人物御台所]]
[[Category:河内源氏]]
[[Category:鎌倉時代の人物]]
[[Category:御台所|鎌04]]
[[Category:1202年生]]
[[Category:1234年没]]