「藤原義江」の版間の差分

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=== 吾等のテナー ===
義江は[[1923年]](大正12年)に帰国。同年3月に[[シアトル]]を出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、[[朝日新聞]]は「吾等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載する。4月10日に帰国した藤原は5月6日、[[神田 (千代田区)|神田]][[YMCA]]で[[朝日新聞東京本社|東京朝日新聞社]]主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功、大マスコミの巧みな仕掛にうまく乗った形になる。なお海外にあった3年のうちに生まれた長男・[[藤原洋太郎]]は早世、妻・[[藤原文子]]との関係は[[雲散霧消]]していた。
 
「吾等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を博すが、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキ([[藤原あき]]、[[福澤諭吉]]の実姉:婉の長男で、[[三井財閥]]の番頭、[[中上川彦次郎]]と妾・つねとの間の子で女子学習院出身)とのスキャンダルが大事に発展、ほとぼりを冷ます目的で外遊。[[ハワイ]]、アメリカ西海岸など[[日系人]]の多い土地のリサイタルで稼いでは、あきからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった行動を2度も繰り返す。当時、世紀の恋と謳われた。[[1930年]](昭和5年)に結婚。藤原あきとの間に一子(男子)をもうける。この間[[1926年]](大正15年/昭和元年)にはニューヨークで[[ビクタートーキングマシン|ビクター社]]初の日本人「[[赤盤]]」歌手として吹き込みを行っている。