「長崎市立長崎商業高等学校」の版間の差分

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;旧制商業学校
*[[1885年]](明治18年)- '''創立年'''
**8月 - 大村町(現 万才町)の旧商業会議所跡に第一種商業学校として、九州では初めて「'''[[長崎区]]立長崎商業学校'''」が設立。(修業年限 3ヶ年)
**[[11月5日]] - 開校式を挙行。
***1884年(明治17)年に商業学校通則が公布されてから、横浜・大阪・神戸などに商業学校が発足したが、海外貿易港の長崎にはまだ商業学校がなかった。当時の石田英吉長崎[[県令]](県知事)は、このことを嘆き、松田源太郎ら県下の貿易商に商業学校の設立を勧めた。そこで商業学校設立委員会が組織され、市民から寄付金を募り、経費を貿易五厘金(貿易額の千分の五を積み立てる団体)から補助を受けて学校を創立した。
*[[1886年]](明治19年)
**2月 - 長崎商業学校内に、付属の夜学教場<ref>現在の夜間定時制に相当。</ref>を開設。(3月1日に授業を開始、6月に長崎商業徒弟学校と改称。)
**4月1日 - 長崎外国語学校と長崎商業学校を統合し、「'''県立長崎商業学校'''」と改称した上で、岩原郷新町(現 興善町)に設置。付属の夜学教場はそのまま大村町に残す。
*[[1887年]](明治20年)5月 - 長崎商業徒弟学校が袋町(現 栄町)の新校舎に移転。
*[[1889年]](明治22年)7月 - 長崎商業学校、校舎を馬場郷伊良林に新築、移転。
*[[1893年]](明治26年)3月 - 長崎幼稚園<ref>前身は勝山町の旧尋常長崎女児小学校付設の幼稚科</ref>建設のため、長崎商業徒弟学校が廃止。
*[[1901年]](明治34年)5月 - 長崎市に移管、「'''市立長崎商業学校'''」と改称。
*[[1919年]]([[大正]]8年)11月 - 「'''長崎商業学校'''」と改称。
*[[1922年]](大正11年)- 修業年限を5年とし、午前午後の二部授業開始。学則を改正し、定員150名から1000名に増やす。
*[[1925年]](大正14年)6月 - 「'''長崎市立商業学校'''」と改称。この年、野球部が[[第11回全国中等学校優勝野球大会|甲子園]]に初出場。
*[[1926年]](大正15年)- 野球部、2年連続で2回目の[[第12回全国中等学校優勝野球大会|甲子園]]に出場。
*[[1928年]]([[昭和]]3年)- 創立記念日を[[11月5日]]と制定。
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**野球部、3回目の甲子園出場。
*[[1945年]](昭和20年)
**[[8月9日]] - [[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下]]により、現在の油木町にあった校舎・寮などを焼失。そのため、被爆直後は[[長崎市立上長崎小学校|上長崎国民学校]]・[[長崎市立片淵中学校#沿革|東青年学校]]を仮校舎として授業を再開。
*[[1946年]](昭和21年)[[12月9日]] - 油木谷の元校舎に復帰。
*[[1947年]](昭和22年)4月1日 - [[学制改革]]により、油木谷中学校([[新制中学校]])が設置される。