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{{Otheruses|クロアチアの都市|スロヴェニアの都市|ドブロヴニク}}
{{Infobox settlement
|name = ドゥブロヴニク
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|nickname = "Pearl of the Adriatic"(アドリア海の真珠), "Thesaurum mundi"(世界の宝)
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}}
[[File:Main street-Dubrovnik-2.jpg|right|200px|thumb|プラツァ通り]]
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[[File:Forteresse de Dubrovnik.jpg|thumb|right|200px|ミンチェタ要塞]]
[[File:Onofrio's Fountain, Dubrovnik, Croatia.JPG|thumb|right|200px|オノフリオの大噴水]]
'''ドゥブロヴニク'''([[クロアチア語]]:{{Lang-hr|'''Dubrovnik''', [[イタリア語]]:}}、{{Lang-it|'''Ragusa''', [[ラテン語]]:}}、{{Lang-la|'''Ragusium'''}})は、[[クロアチア]]、[[アドリア海]]沿岸の[[ダルマチア]]最南部に位置する[[都市]]及び[[オプシュティナ|基礎自治体]]で、[[ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡]]の郡都である。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の唯一の海港である[[ネウム]]が回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない(→[[飛び地]])。
 
[[1979年]]に[[世界遺産]]に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は[[2011年]]に行われた国勢調査で42,641である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査では[[クロアチア人]]は住民の88.39%を占めていた。
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== 歴史 ==
町の起源は古く[[ローマ帝国]]時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名'''ラグーサ'''は、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。歴史的に7世紀頃ラウス(Laus) (Laus) と名付けられていた岩島に近くの都市[[エピダウロス (ダルマチア)|エピダウロス]](Epidaurus) (Epidaurus) からの[[ダルマチア人]]の避難民が、[[スラヴ人]]の侵略から逃れるために成立したとされる<ref>[http://books.google.com/books?id=E_NBAAAAYAAJ&pg=PA218&dq=Epidaurus+ragusa+Researches+on+the+Danube+and+the+Adriatic&lr=&cd=1#v=onepage&q=&f=false Researches on the Danube and the Adriatic] by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, [[Dalmatia]] and Croatia, Servia and Bulgaria-Brockhaus Chapter 9. page 218</ref> 他、[[8世紀]]からの[[ビザンチン]]の[[バジリカ]]や城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、従来からの説が異議を唱えられることもある。バジリカは当時、相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。また、科学的な類似性によってラグーサは[[紀元]]以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。「ギリシャ説」は最近の発見によって増えてきており、ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス(Laus) (Laus)、ラウサ島(Lausa) (Lausa) 説は否定された。
 
アントゥン・ニチェティッチ博士(Antun Ničetić)(Antun Ničetić) の「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest(Povijest dubrovačke luke)luke) によれば、ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。鍵となる要素は古代船は1日当たり45-50[[海里]]の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、ギリシャ人の居住地として知られた[[ブドヴァ]]と[[コルチュラ島]]の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。
 
=== ラグーサ共和国 ===
:{{see also|ラグサ共和国}}
 
[[東ゴート王国]]崩壊後、町は[[ビザンティン帝国]]の下[[保護国]]の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。[[十字軍]]の後、ラグーサは[[ヴェネチア]]主権([[1205年]]-[[1358年]])の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあった[[ハンガリー王国]]から独立を果たす。[[14世紀]]から[[1808年]]までラグーサは自由国として存続した。[[15世紀]]から[[16世紀]]にかけて最盛期を迎えヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。[[1272年]]にラグーサ共和国は自治権を獲得し、[[ローマ法]]や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた<ref>Naklada Naprijed, ''The Croatian Adriatic Tourist Guide'', pg. 354, Zagreb (199), ISBN 953-178-097-8</ref>。
 
[[:w:Republic of Ragusa|ラグサ共和国]]の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、[[1301年]]には医療制度が確立しており[[1317年]]に現在でも営業している最初の[[薬局]]が開業している。[[1347年]]に[[養老院]]が[[1377年]]には隔離病棟が開かれた。[[1418年]]には奴隷貿易は廃止され、[[1432年]]に[[孤児院]]が開かれている。[[1436年]]に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。貴族階級を含め、[[17世紀]]まで共和国の住人のほとんどは[[ラテン]]由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。
同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素と[[ルネサンス]]期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。
 
共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くの[[スペイン]]や[[ポルトガル]]からの[[マラーノ]]や[[ユダヤ人]]をラグーサはひき付けた。[[1544年]]、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア(Balthasar (Balthasar de Faria)Faria) が[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン王]]に報告している。
隆盛を極めたラグーサ共和国だが、[[1667年のドゥブロヴニク大地震|1667年に発生した壊滅的な地震]]の後、[[アドリア海]]交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された <ref>[http://books.google.com/books?id=vwK4jhvjHQkC&pg=PA86&dq=dubrovnik+earthquake+of+1667&client=safari&cd=1#v=onepage&q=dubrovnik%20earthquake%20of%201667&f=false Earthquake Monitoring and Seismic Hazard Mitigation in Balkan Countries] by Eystein Sverre Husebye</ref>。
[[1699年]]、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地を[[オスマン帝国]]に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]に属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、[[アドリア海]]に接する町である[[ネウム]]である。
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=== オーストリア=ハンガリー帝国 ===
[[1814年]][[1月29日]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は町を占領し[[ウィーン会議]]によって、[[ハプスブルク領{{仮リンク|ダルマチア王国]]{{enlink|en|Kingdom of Dalmatia|a=on}}の一部とされた。この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。週に3度、トルコの[[キャラバン]]が町のバザールにやって来た。ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、新たな港や[[1970年代]]まで存在した[[ドゥブロヴニク市電]]が整備されている。[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツヨーゼフ1世]]や[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]の夏の[[ヴィラ]]が沖合いの[[ロクルム島]]に築かれた。
 
=== 1921年から1991年 ===
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それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は[[1991年]]から[[1992年]]にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアや[[スロベニア]]が独立を宣言した年で、[[クロアチア社会主義共和国]]は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。[[1970年代]]の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、[[ユーゴスラビア人民軍]]に残っていた[[セルビア・モンテネグロ]]によって町は攻撃されている。
 
当時[[モンテネグロ]]の政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ(Momir Bulatović)(Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している<ref name="yorku1">{{cite web|url=http://www.yorku.ca/soi/_Vol_5_1/_HTML/Pavlovic.html#fnB28 |title=Pavlovic: The Siege of Dubrovnik |publisher=Yorku.ca |author=Srđa Pavlović|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nYLi2zaI|archivedate=2010-02-15|accessdate=2008-11-11}}</ref>。この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人で[[モンテネグロ人]]の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった<ref name="yorku1"/>。この要求には[[スロボダン・ミロシェヴィッチ|ミロシェビッチ]]が送り込んだ民族主義者の[[大セルビア]]主義が関係している。
 
[[1991年]][[10月1日]]にドゥブロヴニクへユーゴスラビア人民軍(JNA) (JNA) が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。[[12月6日]]には最大の砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、ドゥブロヴニク包囲では犠牲者に著名な詩人である[[ミラン・ミリシッチ]](Milan Milisić)(Milan Milisić) が含まれていた。海外メディアは旧市街の損害や人的犠牲を大きく大袈裟なくらいに批判した<ref>Joseph Pearson, 'Dubrovnik’s Artistic Patrimony, and its Role in War Reporting (1991)' in European History Quarterly, Vol. 40, No. 2, 197-216 (2010). [http://ehq.sagepub.com/cgi/content/abstract/40/2/197]</ref>。紛争終結後は砲撃による旧市街の損害は復旧が進んだ。修復は[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]のガイドラインに忠実に元来の姿に戻されている。[[2005年]]にはもっとも被害を受けた箇所も復旧しており、紛争の被災地を示した地図を城門近くで見ることが出来る。[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]でのJNAの大将や将校の起訴内容にはこの砲撃も含まれている。
 
== ドゥブロヴニクの言葉 ==
ドゥブロヴニクの公用語は[[1472年]]まで[[ラテン語]]が使用されていた。その後、ラグーサ共和国は公用語にラテン語と同系の[[ロマンス諸語]]の一種であるラグーサ方言の[[ダルマチア語]]を採用すること決め、議会での討議の場での[[スラヴ語派|スラヴ語]]の使用は禁止された。上流階級(Gospari) (Gospari) は自分たちの言葉を数世紀にわたって保持していたが、徐々に廃れていった。ラテン系の言葉が公用語として使われてはいたが、共和国のほとんどの地元住民はスラヴ語を使用していた。[[1698年]]の P. A. Tolstoj による記録に残されている。彼らは共和国に常に誇りを持っていたため、自分たちのことをラグーサ人を意味するラグーサン(Ragusan) (Ragusan)、ラグセオス(Raguseos) (Raguseos) と呼んでいた<ref name="jezik">{{hr icon}} [http://web.archive.org/web/20030820160429/http://www.hercegbosna.org/ostalo/jezik3.html Jezik, lingvistika i politika: Ilirski iliti slovinki jezik](2003年8月20日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[ダルマチア語]]は市内で話されていたが、[[イタリア語]]も話されており[[ヴェネツィア語]]や[[トスカーナ方言]]の影響も強かった<ref>{{it icon}} {{cite web|url=http://xoomer.virgilio.it/histria/storiaecultura/testiedocumenti/tesiscaglioni/tesi.htm|title=La presenza italiana in Dalmazia, 1866-1943|year=1996|work=Tesi di Laurea|publisher=Facoltà di Scienze politiche - Università degli studi di Milano|last=Marzio|first=Scaglioni|archivedate=2010-02-17|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nbG01IRn|accessdate=2010-02-17}}</ref>。
 
== 地区 ==
{{Historical populations
|title = ドゥブロヴニクの<br /> 人口推移
|shading = off
|source = Naselja i stanovništvo Republike Hrvatske 1857–2001, DZS, Zagreb, 2005
|1880 |15666
157行目:
|2011 |42615
}}
 
<table><tr valign="top">
*ボサンカ(Bosanka) (Bosanka) 139人
<td>
*ブレセチネ(Brsečine)99 (Brsečine) 99
*ボサンカ(Bosanka) 139人
*チャイコヴィチ(Čajkovići)24ツァ (Čajkovica) 149
*ブレセチネ(Brsečine)99人
*チャイコヴィツァ(Čajkovica)149チ (Čajkovići) 24
*ゴルニェ・オブリェノ(Gornje Obuljeno)121(Donje Obuljeno) 210
*チャイコヴィチ(Čajkovići)24人
*ドニェ・オリェノ(Donjeラヴィツァ Obuljeno)210(Dubravica) 37
*'''ドゥブィツァ(Dubravica)ニク''' 37(Dubrovnik) 28,113
*ゴルニェ・オブリェノ (Gornje Obuljeno) 121人
</td>
*グロマツァ(Gromača)141 (Gromača) 141
<td>
*クリシェヴォ(Kliševo)55 (Kliševo) 55
*'''ドゥブロヴニク'''(Dubrovnik)28,113人
*クネジツァ(Knežica)120 (Knežica) 120
*ゴルニェ・オブリェノ(Gornje Obuljeno)121人
*コロチェプ(Koločep)165 (Koločep) 165
*グロマツァ(Gromača)141人
*コマラツ (Komolac) 313人
*クリシェヴォ(Kliševo)55人
*ロプド(Lopud)249 (Lopud) 249
*クネジツァ(Knežica)120人
*ロジツァ(Lozica)136 (Lozica) 136
</td>
*リュバチュ(Ljubač)62 (Ljubač) 62
<td>
*モコシツァ(Mokošica)1 (Mokošica) 1,946人
*コロチェプ(Koločep)165人
*コマヴィニャ(Komolac)313 (Mravinjac) 80
*ムルチェヴォ(Mrčevo)86 (Mrčevo) 86
*ロプド(Lopud)249人
*ノヴァ・コシツァ(Nova Mokošica)5(Nova Mokošica) 5,921人
*ロジツァ(Lozica)136人
*オラシャツ(Orašac)625 (Orašac) 625
*リュバチュ(Ljubač)62人
*オソイニク(Osojnik)297 (Osojnik) 297
</td>
*ペトロヴォ・セロ(Petrovo Selo)(Petrovo Selo) 22人
<td>
*ポブレジエ(Pobrežje)121 (Pobrežje) 121
*モコシツァ(Mokošica)1,946人
*プリイェヴォル(Prijevor)441 (Prijevor) 441
*ムラヴィニャツ(Mravinjac)80人
*ロジャト(Rožat) (Rožat) 339人
*ムルチェヴォ(Mrčevo)86人
*スジュラジュ(Suđurađ)203 (Suđurađ) 203
*ノヴァ・コシツァ(Nova Mokošica)5,921人
*スステイェパン(Sustjepan)306 (Sustjepan) 306
*オラシャツ(Orašac)625人
*シパンスカ・ルカ(Šipanska Luka)(Šipanska Luka) 211人
</td>
*シュメト(Šumet) (Šumet) 173人
<td>
*トルステノ(Trsteno) (Trsteno) 221人
*オソイニク(Osojnik)297人
*ザトン(Zaton)1 (Zaton) 1,001人
*ペトロヴォ・セロ(Petrovo Selo) 22人
*ポブレジエ(Pobrežje)121人
*プリイェヴォル(Prijevor)441人
*ロジャト(Rožat) 339人
</td>
<td>
*スジュラジュ(Suđurađ)203人
*スステイェパン(Sustjepan)306人
*シパンスカ・ルカ(Šipanska Luka) 211人
*シュメト(Šumet) 173人
*トルステノ(Trsteno) 221人
*ザトン(Zaton)1,001人
</tr></table>
 
== 交通 ==
ドゥブロヴニク市内には{{仮リンク|ドゥブロヴニク空港|en|Dubrovnik Airport}}があり、中心部から20kmほど離れた[[コナヴレ]]のチリピ(Čilipi) (Čilipi) 近くに位置する。国際空港からは欧州各都市へアクセスすることが可能で、多くの観光客の玄関口となっている。空港とドゥブロヴニク旧市街やクロアチア各都市や近隣国とを結ぶ長距離バスターミナがある[[グルージュ]](Gruž) (Gruž) へはバスが運行されている。深夜まで走り市内の路線網が良く整備され高頻度な路線バスも運行されている。しかしながら、ドゥブロヴニクへは他のクロアチアの主要都市への鉄道路線がない<ref>{{cite web |url=http://www.dubrovnik-online.com/english/transportation_rail.php |title=Transportation Rail |accessdate=20 June 2009 |publisher=Dubrovnik Online}}</ref> 。[[1975年]]までは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の主要都市である[[モスタル]]や首都[[サラエヴォ]]まで[[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代に建設された軌間760mmの狭軌鉄道が運行されていた。今日、ボスニア・ヘルツェゴビナへの交通手段は路線バスや車などしかない。ザグレブ、ラヴチャ(Ravča) (Ravča) を結ぶA1ハイウェーがドゥブロヴニクへ延長される計画もある。[[ペリェシャツ半島]]を通る橋が計画され、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を経由しないルートが検討されたがこれは資金的な問題により計画が中止され、現在はボスニア・ヘルツェゴビナ領内を通過する高速道路の建設についてボスニア・ヘルツェゴビナ政府と交渉することが検討されている。しかしながら、2013年7月からクロアチアが[[欧州連合]]に加盟することから国境の管理問題がある<ref>[http://www.neurope.eu/article/croatia-build-corridor-through-bih-instead-peljesac-bridge-0 Croatia to build a corridor through BiH instead of Pelješac Bridge] New Europe 2012-05-12</ref>。
 
== 教育 ==
294 ⟶ 282行目:
*1日の平均日照時間 7.2時間
 
== 姉妹都市 ==
*{{Flagicon|AUT}} [[グラーツ]], [[オーストリア]]
*{{Flagicon|GER}} [[:en:Bad Homburg{{仮リンク|バート・ホンブルク]]|en|Bad Homburg}}, [[ドイツ]]
*{{Flagicon|SWE}} [[ヘルシンボリ]], [[スウェーデン]]
*{{Flagicon|CRO}} [[ヴコヴァル]], [[クロアチア]]
*{{Flagicon|ITA}} [[ラヴェンナ]], [[イタリア]]
*{{Flagicon|USA}} [[モントレー]], [[アメリカ合衆国]]
*{{Flagicon|FRA}} [[リュエイユ=マルメゾン]], [[フランス]]
 
== 文化・世界遺産 ==
{{世界遺産概要表
|site_img = ファイル:View old city of Dubrovnik-5.jpg
311 ⟶ 300行目:
|fr_name = Vieille ville de Dubrovnik
|country = クロアチア
|criterion_c = (i), (iii), (iv)
|rg_year = 1979年
|ex_rg_year = 1994年
319 ⟶ 308行目:
|map_img_width = 275px
}}
 
== 文化・世界遺産 ==
毎年夏に45日間にわたり、コンサートや競技会などを含む文化的な催しであるドゥブロヴニクサマーフェスティバルが開催されている。[[2月3日]]はドゥブロヴニクの[[守護聖人]]である[[ブラシウス]]の祝日で、大きなパレードや祝祭が行われ数日間続く<ref>[http://web.archive.org/web/20071021141211/http://web.tzdubrovnik.hr/clanak.shtml?clanak=890 Dubrovnik news]</ref>。
旧市街は[[1993年]]から[[2002年]]に発行された50[[クーナ]]紙幣の裏側に描かれている<ref name="banknotes1993">[http://www.hnb.hr/ Croatian National Bank]. [http://www.hnb.hr/novcan/enovcan.htm?tsfsg=5caabbb4dca58151e125c650d3cdae36 Features of Kuna Banknotes]: [http://www.hnb.hr/novcan/novcanice/e50k.htm?tsfsg=45cbd9aa061b9ecb8d80e8feb87d6be6 50 kuna] (1993 issue) & [http://www.hnb.hr/novcan/novcanice/e50k-2izdanje.htm?tsfsg=0bd5ec961a61889067936c3c7bb033d8 50 kuna] (2002 issue). – Retrieved on 30 March 2009.</ref>。
聖ブラシウスの像は市内の周辺で見ることが出来る。ブラシウスはヴェネツィアへの福音者[[マルコ (福音記者)|マルコ]]と同様に重要で、旧市街にある大きな教会の一つである聖ブラホ教会の名称にも因んでいる。アルボレトゥム・トルステノ(Arboretum Trsteno)(Arboretum Trsteno) は世界で最古の植物園で[[1492年]]以前に遡る。また、ヨーロッパでは3番目に古い薬局があり、[[1317年]]に遡り現在でも営業しているなど旧市街地は古い建物を誇っている。[[イギリス]]の劇作家[[ジョージ・バーナード・ショー]]は[[1929年]]にドゥブロヴニクを訪れ「この世の天国が見たければ、ドゥブロヴニクに行かれよ。」と述べている。ドゥブロヴニク湾には72ヘクタールの木に覆われた[[ロクルム島]]があり、伝説によれば[[1192年]][[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]が難破した後、岸にたどり着いたとされている。現在、島には城壁や植物園、[[ヌーディズム|ナチュラリスト]]ビーチがある。
 
[[1667年のドゥブロヴニク大地震|1667年の大震災]]ではドゥブロヴニクの[[ルネサンス]]期の建物は少数だけ生き残ったが、幸いなことに建築遺産としては十分に残っている<ref>{{cite web |url=http://www.croatiatraveller.com/southern_dalmatia/Dubrovnik/Dubrovnik_sights.htm|title=Dubrovnik Sights|publisher=Croatia Traveller|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZcXdGut|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|last=Oliver|first=Jeanne}}</ref>。
ルネサンス期遺産で最も輝かしいものは[[16世紀]]以来のスポンザ宮殿で現在は公文書館として使われている<ref>{{cite web|url=http://www.dubrovnikcity.com/dubrovnik/attractions/sponza_palace.htm|title=Sponza Palace|publisher=DubrovnikCity.com|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZd5Sp5D|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16}}</ref>
レクター宮殿(Rector) (Rector) はゴシック・ルネサンス様式の建物で優美な曲線と絢爛豪華な階段を表して、現在は博物館として使われ<ref>{{cite web|url=http://www.dubrovnikcity.com/dubrovnik/attractions/rectors_palace.htm|title=The Rector's Palace|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZdcJwZn|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|publisher=DubrovnikCity.com}}</ref>、建物の[[ファサード]]は1993年から2002年にかけて発行された50クーナ紙幣に旧市街と共に描かれている。聖サヴィオゥール教会はルネサンス期の名残を留め、隣は多くの観光客が訪れるフランシスコ会修道院である<ref>{{cite web|url=http://www.dubrovnik-guide.net/francisian.htm|title=Franciscan monastery|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZex4dgy|publisher=Dubrovnik Guide|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.sacred-destinations.com/croatia/dubrovnik-franciscan-monastery.htm|title=Franciscan Friary, Dubrovnik|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZfE54l4|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|publisher=Sacred Destinations}}</ref>。
フランシスコ会修道院の図書館には30,000冊の蔵書、22の[[インキュナブラ]]、1,500もの貴重な手書きの文書が保管されている。[[15世紀]]の銀と金メッキのクロスや銀の香炉、[[18世紀]]のエルサレムの十字架も含まれる。ドゥブロヴニクではもっとも敬愛されている聖ブラシウス教会(聖ヴラホ教会)は[[18世紀]]に建てられた。ドゥブロヴニクのバロック様式の大聖堂は18世紀に建てられ、聖ブラシウスの聖遺物と共に象徴的である。[[ドミニコ会]]修道院は城壁の外側に似ているが、内側にはゴシック・ロマネスク様式の教会と美術館を含んでいる<ref>{{cite web|url=http://www.sacred-destinations.com/croatia/dubrovnik-st-blaise-church.htm|title=Church of St. Blaise, Dubrovnik|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZgkO04Q|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|publisher=Sacred Destinations}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.dubrovnik-online.com/english/monuments4.php|title=Monuments (16 to 20)|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZgalc2L|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|publisher=Dubrovnik Online}}</ref>
ドミニコ会修道院の貴重な財産は図書館に保管されている220以上のインキュナブラや多くの手書きの写本や図絵で、[[アーカイブ]]にはこれら貴重な品々が保管されている<ref>{{cite web|url=http://www.sacred-destinations.com/croatia/dubrovnik-dominican-monastery.htm|title=Dominican Friary, Dubrovnik|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZfQyvhE|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16|publisher=Sacred Destinations}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.croatiatraveller.com/southern_dalmatia/Dubrovnik/Dominican.htm|title=Dominican Monastery|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZhbUmeY|publisher=Croatia Traveller|last=Oliver|first=Jeanne|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.dubrovnik-online.com/english/monuments5.php|title=Monuments (21 To 22)|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nZhwi079|publisher=Dubrovnik Online|archivedate=2010-02-16|accessdate=2010-02-16 }}</ref>。
ドゥブロヴニクの顔でもある[[ドゥブロヴニク城壁]]は周囲約1,900mあり、厚さ5メートル、高さ20メートルの堅牢な市壁<ref>田中一生「世界遺産の中世都市」/ 柴宣弘編著『バルカンを知るための65章』明石書店 2005年 104ページ</ref>。最初に造られたのは[[7世紀]]とされるが今日見られる主要な部分は[[12世紀]]から[[17世紀]]にかけて造られている。
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**城壁(旧市街を囲んでいる。通行でき、カフェや展望台も有る。内戦で甚大な被害を受けた。)
 
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|文化}}
{{世界遺産文化1}}
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== イメージ ==
=== パノラマ ===
{{wide image|1 dubrovnik panorama.jpg|1000px|ドゥブロヴニク旧市街の眺め}}
{{wide image|Dubrovnik - old harbour pano.jpg|1000px|旧港から町と[[スルジ山]]([[:hr: (Srđ|Srđ]])) の眺め}}
 
=== ギャラリー ===
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== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Dubrovnik|Dubrovnik}}
* [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/euro/dubrovnik.html 世界飛び地領土研究会-ドゥブロヴニク]
* [http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid=31&id_site=95 Old City of Dubrovnik - UNESCO World Heritage Centre] {{en icon}} {{fr icon}}
* [http://www.dubrovnik.hr/ Grad Dubrovnik - City of Dubrovnik] {{hr icon}} {{en icon}}