「恭帝 (西魏)」の版間の差分

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{{基礎情報 中国君主
|名 =恭帝 拓跋
|代数 =3
|呼称 =皇帝
|画像 =
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|王朝 =西魏
|在位期間 =[[554年]] - [[556年]]
|都城 =[[長安]]
|諱 =元廓拓跋廓
|字 =
|小字 =
|諡号 =恭皇帝
|廟号 =
|生年 =[[大統]]3年([[537年]]
|没年 =[[557年]]
|父 =[[文帝 (西魏)|文帝]](第4子)
|母 =
|皇后 =[[若干皇后]]
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|注釈 =
}}
'''恭帝'''(きょうてい)は、[[南北朝時代 (中国)|北朝]][[西魏]]の第3代(最後の[[皇帝]]。また、元氏([[拓跋氏]])の最後の皇帝でもある。
 
==略歴生涯==
[[文帝 (西魏)|文帝]]の四男として生まれた。[[大統]]14年([[548年]]に斉王に封ぜられた。[[554年]]1月に異母兄の元欽([[廃帝 (西魏)|廃帝元欽]]が[[宇文泰]]によって廃位されると、代わって皇帝に擁立された。
 
[[556年]]1月、[[周礼]]にならって六官を建て、宇文泰を[[太師]]・大冢宰とし、[[李弼]]を[[司徒|大司徒]]とし、[[趙貴]]を[[太保]]・大宗伯とし、[[独孤信]]を[[大司馬]]とし、[[于謹]]を大司寇とし、[[侯莫陳崇]]を[[司空|大司空]]としにそれぞれ任じた。
 
556年10月に宇文泰が没すると、12月に[[宇文護]]に迫られ、恭帝は周公[[孝閔帝|宇文覚]]に帝位を[[禅譲]]する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。恭帝拓跋廓は宮中を出て大司馬府にうつった。
 
[[557年]]1月、宇文覚が天王の位につき、いて[[北周]]を建てると、恭帝拓跋廓は宋公に封ぜられた、間もなく殺害された。
 
{{北魏の皇帝|[[西魏]]|554年 - 556年|第3代}}
 
{{DEFAULTSORT:きようてい}}
[[Category:元魏の皇帝]]
[[Category:中国西安出身幼君人物]]
[[Category:537年生]]
[[Category:557年没]]
[[Category:中国の幼君]]