「平将恒」の版間の差分

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| 生誕 = 不詳
| 死没 = 不詳
[[天喜]]5年([[1057年]])?
| 改名 =
| 別名 = 大蔵太郎、六郎、秩父将恒、秩父将常
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== 生涯 ==
父の忠頼は[[平将門]]の従兄弟にあたり、[[平将門の乱]]を鎮圧した[[平繁盛]]に仇敵と呼ばれていたことから、忠頼は平将門の乱において将門側にあったものと推定され、平将門の次女・春姫を妻にしたほか、息子の平将恒の「将」の字も平将門から引き継いだものと思われる。生年は不詳だが、弟の忠常の生年が[[天延]]3年9月13日([[975年]]10月19日)とされており、これより以前の誕生と考えられる。
 
将恒は兄弟である[[平忠常]]が起こした[[平忠常の乱]]に加担せず、勢力を大きく減退させることは無かった。
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[[武蔵国]][[秩父郡]][[中村郷]]に因んで[[秩父氏]]若しくは[[中村氏]]を称した。将恒の子孫は秩父平氏として武蔵の[[豪族]]として発展することになる<ref name="aa" />。
 
[[前九年の役]]にて51歳で戦死したと云われるが、弟の生年から考えると矛盾する。
 
長男・[[平武基|武基]]の生母は[[武蔵武芝]]の娘(『[[西角井系譜]]』より)、次男・[[平武常|武常]]と三男・[[平常任|常任]]の生母は[[平忠通]]の娘とされる(『[[桓武平氏良文系全系図‎]]』より)。