「国吉真吉」の版間の差分

 
== 概要 ==
国吉真吉([[琉球方言]]で、クニシ シンキチ)は、1848年、父・国吉真善、母・マチの長男として[[那覇]]・[[久茂地]]村に生まれた。あだ名は、のちに名護間切(現・[[名護市]])に転居した事から'''久茂地の山原国吉'''(やんばる・くにし、[[山原|やんばる]]は名護など[[国頭郡]]の俗称)”<ref>「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」『琉球新報』昭和11年11月9-11日記事参照[http://motobu-ryu.org/jissendan.aspx]</ref>と呼ばれた。因みに、[[廃藩置県]]以前の[[沖縄本島]]には「山原」という名字(家名)は存在しないので<ref>『沖縄県姓氏家系大辞典』(角川書店、1992年)の「山原」(584頁)の項目参照。</ref>、これは山原国吉(やまはら・くにきち)という姓名ではない。他に“'''国吉のタンメー'''”、“'''武士国吉'''”とも呼ばれた。国吉家は、査姓国吉親雲上真元を元祖とし、その七世国吉筑登之親雲上五男真一を系祖として分かれた琉球士族であったとされる<ref>『沖縄空手古武道事典』427頁参照。</ref>。
 
国吉真吉について述べた戦前の文献は殆ど存在しないが、[[本部朝基]]が[[1936年]](昭和11年)那覇で開催された座談会で、自分が師事した武術家の一人として[[松村宗棍]]、佐久間親雲上、[[松茂良興作]]、[[糸洲安恒]]ら大家とともに国吉真吉の名を挙げているので<ref>「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」参照。</ref>、当時としては相当著名な武術家であったようである。
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