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山元 (会話 | 投稿記録)
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中村茂は、[[1891年]](明治24年)年、父・中村幸吉、母・カメの長男として[[沖縄本島]]北部の名護間切(現・[[名護市]])に生まれた。幼少の頃より祖父や親戚から武勇伝を聞いて育ち、[[武術]]に興味を持った。夭折した父やその弟・中村貞一から「[[手 (沖縄武術)|手(ティー)]]」と[[琉球古武術]]の手ほどきを受けた後、15歳の時、沖縄県立第一中学校(現・[[首里高校]])に入学して、そこで[[唐手]]を本格的に習い始めた。当時の一中の唐手師範は[[糸洲安恒]]、師範代は[[花城長茂]]だったので、中村は両者に師事したものと思われる。
 
その後、中村は久茂地の山原国吉(やんばるくにし)”こと、[[国吉真吉]]にも師事した。国吉真吉は、査氏国吉家の後裔で「武士国吉(クニシ)」ともあだ名される著名な武術家であった。那覇・久茂地村に住んでいたが60歳頃に名護に転居してきたので、中村は国吉に師事する事になった。国吉からはニーセーシ等の型を習った<ref>「古武道3・中村茂(67歳)ニセシ」『沖縄タイムス』1961年11月17日、参照。</ref>。中村はその後、さらに[[喜屋武朝徳]]や[[本部朝基]]らとも修業を重ねた<ref>同上。</ref>。
 
戦後、中村は、仲里常延(少林寺流)、島袋善良(少林流)らと共に[[保勇]]の招聘を受け、[[福岡県]]で開催された空手大会に参加した。[[1961年]](昭和36年)、沖縄古武道協会(会長・比嘉清徳)の結成に、島袋龍夫、[[上原清吉]]、[[祖堅方範]]、兼島信助、島袋善良らと共に参画、同年開催された第一回古武道大会ではニーセーシの型を披露した。