「阿南惟幾」の版間の差分

父・阿南尚は[[大分県]][[竹田市]][[玉来]]出身だが、[[内務省 (日本)|内務]][[官吏]]であったため、幼少時は[[東京]]・大分竹田、[[徳島]]などを転々としながら育った(ただし、本籍は竹田市にあった)。早くから陸軍[[将校]]を志望していたが、[[徳島県立城南高等学校|徳島中学校]]2年生の時に、当時[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]長であった[[乃木希典]][[中将|陸軍中将]]の助言もあり[[陸軍幼年学校]]を受験して入校。阿南は乃木を終生の模範として仰いだ。幼年学校を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](18期)・[[陸軍大学校]](30期)を卒業。陸大の試験に3度失敗したことは有名だが、卒業の席次も60人中18番と平凡なものだった。1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは[[侍従武官]]を務めたが、当時[[侍従長]]であったのが[[鈴木貫太郎]]であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。
 
その後侍従武官を辞して[[近衛歩兵第2連隊]]長を経て[[東京陸軍幼年学校]]長となったが、1936年(昭和11年)2月26日に[[二・二六事件]]が勃発し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。当時だった阿南は、全校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず[[軍服]]を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いている。8月には新設された[[陸軍省]][[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に就任した。1937年(昭和12年)には[[陸軍省#人事局|陸軍省人事局]]長に就任した。この頃から人望や職務への精勤ぶりが徐々に評価され、政治的に無色であったことも幸いし、「同期に阿南あり」との認識が生まれていく。1939年(昭和14年)10月から1941年(昭和16年)4月には[[陸軍次官]]を務めた。この間に[[日独伊三国同盟]]に反対していた[[米内内閣]]に対して陸軍が反発し、[[畑俊六]]陸軍大臣を辞職させ、阿南ら[[陸軍三長官]]が後任を推薦しないことで米内内閣を倒した。
 
[[Image:AnamiKorechika.jpg|thumb|200px|侍従武官たる[[大佐|陸軍歩兵大佐]]時代の阿南。[[銀色]]の[[飾緒#大日本帝国陸海軍|侍従武官飾緒]]を佩用]]
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