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| ISSN =
| 雑誌名コード =
| 刊行期間 = [[1969年]]5月 - [[2009年]]5月
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'''諸君!'''(しょくん)は、株式会社[[文藝春秋]]が発刊していた[[月刊]]オピニオン[[雑誌]]。毎月1日(年末は25・26日、以前は毎月2・3日であった)発売。最終号の編集長は内田博人。編集部員は5名~7名と少人数の編集活動だった。発行部数は[[2008年]]9月時点で約6万部、実売は約4万部だった<ref>{{cite news |url=http://www.asahi.com/culture/update/0302/TKY200903020297.html |title=創刊40年「諸君!」休刊へ 部数低迷 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2009年3月2日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20090304004701/http://www.asahi.com/culture/update/0302/TKY200903020297.html |archivedate=2009年3月4日}}</ref>。[[2009年]]6月号を最後に休刊した<ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090303/bks0903031407002-n1.htm |title=「諸君!」が休刊へ 創刊40年、部数低迷などで
|newspaper=MS産経ニュース |date=2009-03-03 |accessdate=2010-02-15 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20090306115446/http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090303/bks0903031407002-n1.htm |archivedate=2009年3月6日}}</ref>。
 
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[[1969年]]5月に7月号として創刊。初代編集長は[[田中健五]]。「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」の兄弟誌として位置づけられ、「文春の社説」とも言われた。
 
当時の文藝春秋社長[[池島信平]]は、当時[[学園紛争]]が激化しており、論壇も[[左翼]]一辺倒過ぎないかと捉えていた。そこで、看板雑誌「文藝春秋」では扱いにくい「日本人として恥ずかしくない」[[保守]]的記事を扱える雑誌を作ろうとした。池島は「文藝春秋は売れすぎて言いたいことが言える雑誌ではなくなった、だから小数部でも言いたいことを言う雑誌を作ろう」と、諸君を創刊したと述べている。
 
池島は同様の危機感を持つ[[福田恆存]]、[[三島由紀夫]]などを中心に、前年に結成された保守系団体「日本文化会議」(1994([[1994]]春に解散)の依頼を引き受け、その機関誌として創刊する予定であったが、社内の強い反発により、現状の形に落ち着いたという。三島由紀夫は自決の直前に『革命の哲学としての[[陽明学]]』を、田中編集長の立会いで口述筆記し、三島唯一の論文掲載となった(現:『行動学入門』[[文春文庫]])。[[1971年]]2月号「[[三島事件]]」総特集号となった。
 
初期に保守系論壇人としては福田恒存、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[竹山道雄]]、[[山本七平]]、[[江藤淳]]、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、[[田中美知太郎]]、[[高坂正尭]]、[[村松剛]]らが寄稿。
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創刊時の田中美知太郎『時代と私』から始まり、[[宮本常一]]や[[井上光貞]]などの著名な学者の回顧録を連載した。また80年代に、作家[[辺見じゅん]]が[[今西錦司]]、[[谷川徹三]]、[[土屋文明]]といった当時健在だった[[明治]]生まれの学者・文化人へのインタビュー対談を掲載していた。のちに『初めて語ること―賢師歴談』として刊行された。
 
[[1980年]]1月号より開始した巻頭[[コラム]]「紳士と淑女」(筆者は[[徳岡孝夫]]、最終号で明かされた)。また巻末コラムの[[山本夏彦]]「笑わぬでもなし」([[2002年]]に没する少し前までの約350回)も著名であった。[[1980年]]には60年代初頭まで[[左派]]であった[[清水幾太郎]]が本誌上にて[[核武装]]論を展開し、[[転向]]として話題となるなど、保守論壇の中核的月刊誌としての地位を確立した。なお清水は回顧録『わが人生の断片』を連載し上下巻で刊行。
 
初代編集長の田中健五(のち社長・会長)の意向が強く反映した内容を踏襲してきた。「[[正論 (雑誌)|正論]]」・「[[Voice (雑誌)|Voice]]」・「[[WiLL (雑誌)|WiLL]]」などと共に[[保守]]・[[右派]]論壇誌であり、[[リベラル]]・[[左派]]路線の[[岩波書店]]の「[[世界 (雑誌)|世界]]」、[[朝日新聞社]]の「[[論座]]」(2008年休刊)などの左派系論壇誌と対をなしていた。そのため戦前戦中日本([[大日本帝国]])を直視する立場をとっており[[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]](ソ連はなぜか対象ではなかといった)など周辺諸国の[[ナショナリズム]]を警戒する論文を掲載していた。
 
「文藝春秋」・「[[週刊文春]]」同様に[[公明党]]・[[創価学会]]には批判的。[[池田大作]]らの言動を巻頭コラム「紳士と淑女」でたびたび取り上げたほか、元[[毎日新聞]]編集委員[[内藤国夫]]による論説「月刊創価学会問題」を内藤が死去した[[1999年]]まで10年以上にわたって連載、論壇誌の中では同会に対し最も厳しい姿勢を取った。
 
[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮の拉致問題]]は左派系マスコミが沈黙する<ref>ただし[[日本共産党]]の[[橋本敦]]が早くから拉致問題に取り組み国会で取り上げた他、[[朝日新聞]]が[[1985年]]8月に「北朝鮮の密入国船が関与?」と報道した突発的事例があるなど拉致問題への取り組みは保守系の人々のみに留まっていたわけではないが、保守系のように拉致疑惑を継続して追求した姿勢は皆無だった。</ref>中で、当初から大きく取り上げていた。また、[[サイエンス]]関係の企画も初期は[[立花隆]]が、後期は[[中野不二男]]などが扱っていた。
 
とりわけ[[朝日新聞]]批判は創刊以来の[[ライフワーク]]的存在であり、しばしば特集を組んで批判論陣を張った。古くは[[本多勝一]]の『中国の旅』批判(その中から後述の[[イザヤ・ベンダサン]](=山本七平)と本多の誌上討論が起こった)、21世紀に入ってからは[[女性国際戦犯法廷#NHKの特集番組について|女性国際戦犯法廷のNHK番組改変問題]]で[[安倍晋三]]の主張と同じく「[[捏造]]を行った朝日」と批判を大々的に行っていた。
 
[[岩波書店]]多く本を出し雑誌『世界』論文掲載していたする、主に左派文化人の呼称である「[[進歩的文化人]]」批判も多く行った。特に[[ソビエト連邦|ソ連]]解体([[ソ連崩壊]])後の、左派文化人が[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の[[独裁政治|独裁体制]]や[[中華人民共和国|中国]]の[[文化大革命]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金日成]]崇拝を無条件で礼賛していた各種の過去の発言を雑誌や新聞から発掘し、個人名を挙げて出典付きで紹介する「悪魔祓いの戦後史」([[稲垣武]])の連載は[[山本七平賞]]を受賞した。
 
また[[2001年]]2月号では[[南京大虐殺論争]]では多種多様なアンケート結果を掲載し、誌上で[[産経新聞]]論説委員[[石川水穂]](当時)の司会で、「中間派」の[[秦郁彦]]と「まぼろし派」の[[東中野修道]]による座談会を行った。
 
[[2005年]]には「あなたが朝日に狙われたら」や「あなたが中国に狙われたら」などの特集が組まれたが、これらの一見刺激的なタイトルもいわゆる「諸君!」のタイトル付けの伝統である。特にイザヤ・ベンダサンこと山本七平と本多との誌上論戦は有名で、ベストセラー『日本人とユダヤ人』の著者として有名人であったベンダサンの主張(スタートは上記の『中国の旅』への批判)に対して本多の反論(その後数回に渡り往復書簡形式を取ることになる)を載せたことで本誌の部数の増大には大いに貢献したとも言われる。この討論は全文が本多の著書『殺す側の論理』に収録された。本多はこの討論と書籍化の過程でベンダサンの実在を疑うことになるが、「代理人」を称していた山本はそれを認めることはなかった。
 
90[[1990年代]]には[[自由主義史観]]の主要論陣拠点となり、[[1996年]]に結成された[[新しい歴史教科書をつくる会]]に、産経新聞系の「正論」とともに深く関わっていた。売上面では199090年代後半から「正論」に肩を並べられ、保守論壇の中核的月刊誌を求める読者を二分するようになっていった。
 
[[靖国神社]]参拝を支持する立場を取っていたが、[[2006年]]の[[富田メモ]]発見後は強硬論を和らげる特集も組んだ。[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]の時は保守論客に寄稿させる形で「[[美しい国]]」に関わる特集を多く組んでいたが、[[2007年]]の[[第21回参議院議員通常選挙]]で自民党が大敗すると、安倍が総理を辞任する直前に編集長を交代。路線転換を図っていた。
 
以前から[[小林良彰]]、[[浅田彰]]、[[山口二郎]]、[[大塚英志]]、[[金子勝 (経済学者)|金子勝]]など、右派保守陣営に属さない人物に寄稿させることもあったが、近年も[[上野千鶴子]]、[[大沼保昭]]、[[稲葉振一郎]]、[[井上章一]]など保守派に属さない論客が対談や論説など様々な形で登場しており、この点は「正論」とは異なるところであった。また時折[[アンケート]]という形で各界の識者の意見を聞く特集を組んだが、その場合、登場する面子は左派から政治的な色彩が薄い人物まで様々だった。これは、別の意見や反対の主張も、読者の参考のために掲載するとの編集方針によるものである。
 
[[斎藤貴男]]によると、ある時期までは「[[天皇]]の悪口を言わない限り何を書いてもいい」ところがあったという。また、斎藤は休刊前の「諸君!」を「月刊[[2ちゃんねる]]」と評していた。これは主義主張が2ちゃんねる上で日々行われている反[[特定アジア]]・反リベラル・保守回帰(復古)の書き込みと同質である事に加え、毎月の特集の組み方自体が2ちゃんねる同様に繰り返されている事を批判したものである。
 
[[統一協会]]員の[[仲正昌樹]]が斎藤貴男らを批判した「サヨクの最後の砦 - 「[[格差社会]]」「[[愛国心]]」「[[共謀罪]]」ハンタイ」([[2006年]]8月号)に2ページでいいから反論させろと要求したところ、「読者投稿欄なら」との編集部の回答に失望したという<ref>「[[創 (雑誌)|創]]」[[2006年]]9・10月号</ref>。数ページにわたる批判記事への言論人の反論には2ページ割いて反論を載せるのは従来『諸君!』の伝統であって、石井英夫のそれに対しても俵孝太郎は2ページ反論する機会を与えられている。斎藤は結局、投稿欄への反論を行わなかった。また、以前は本多勝一が投書欄への反論すら拒絶されたことで、訴訟沙汰となっている。掲載された本多への批判の論説は、本多が書いた記事の曲解に基づくものであり、読者に誤解をさせるから[[名誉毀損]]であるとし、本多は発行元の文芸春秋社を提訴した。判決は、掲載された文に本多の記事が引用されているため読者には元の文がわかるとして請求棄却であった。
 
[[2009年]]3月、創刊から40年となる2009年[[5月1日]]発売の2009年6月号で休刊することが発表された。2005年8月までの年間平均部数は8万部強、最高部数は2006年の8万5000部だったが、[[2008年]]9月までには約6万5000部に低落。実売は4万部を切っていたという。[[文藝春秋社]]全体の[[広告]]収入の落ち込みもあり、社業全体の見直しの一環として休刊となった。現在、後継誌発刊の予定は無い。
 
[[2012年]]1月31日、「文藝春秋」2012年 2月号増刊という体裁で3年ぶりに復刊され、北朝鮮問題を特集した。