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'''藤原 登子'''(ふじわら の とうし/なりこ)、生年不詳 - [[天延]]3年3月29日([[975年]][[5月12日]]))は、[[平安時代]]中期の女性。[[右大臣]][[藤原師輔]]の次女。母は[[武蔵国|武蔵守]][[藤原経邦]]の女[[藤原盛子 (藤原経邦女)|盛子]]。[[式部卿]][[重明親王]]の[[継室]]。のち[[村上天皇]]の後宮に入る。さらに[[円融天皇]]の母代りとなり、[[尚侍]]に任官。[[従二位]]。同母兄弟に[[藤原伊尹|伊尹]]・[[藤原兼通|兼通]]・[[藤原兼家|兼家]]、[[藤原安子|安子]](村上天皇[[中宮]])など。[[継子]]に[[徽子女王]](村上天皇[[女御]])がいる。'''貞観殿の尚侍'''。
 
== 生涯 ==
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『[[大鏡]]』や『[[栄花物語]]』によると、同母姉の中宮・安子の引き合わせで村上天皇の宮中に出入りするうちに、天皇はその美貌を忘れがたく、中宮に頼み込んで登子との逢瀬を持っていたという。
天暦8年([[954年]])9月、夫の重明親王が薨去。ついで、応和4年([[964年]])4月、姉の中宮安子が崩御すると、村上天皇は登子を宮中に入内させ寵愛した。
[[康保]]4年([[967年]])5月、村上天皇崩御。親交のあった[[藤原道綱母|道綱母]]の『[[蜻蛉日記]]』には、村上天皇の崩御から間もない頃遣り取りした歌として、「おくれじとうきみささぎに思ひ入る 心はしでの山にやあるらむ」が載せられている。
 
同年9月、新帝・[[冷泉天皇]]の[[皇太子]]として守平親王(後の円融天皇)が立太子する。『蜻蛉日記』に、登子が「東宮の御親」のような立場であったことが記されており、守平親王の養育を担っていた。円融天皇の即位から間もない、[[安和]]2年([[969年]])9月27日従四位上に叙され、同年10月10日[[尚侍]]となる。[[天禄]]元年(970([[970]])11月従三位、[[天延]]元年(973([[973]])1月従二位に昇叙。天延3年(975年)薨去。
 
== 参考文献 ==