「鈴木輝一郎」の版間の差分

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1988年、上司との折り合いが悪くタイトーを退社し、岐阜に帰り実家が営む鈴木コテ製作所に入社した。はじめは工場で左官コテの製造、のちに営業に従事した。2002年、父親の死去にともない社長に就任した。現在も、文筆業のかたわら、月に10日ほど営業兼社長として得意先まわりを続けている。
 
25歳のとき、社員旅行の話をタイトーの社内報に書いたこととワープロ(専用機)を購入したことを契機に小説の執筆をはじめ試みた。はじめて書き上げた短編小説を小説雑誌の新人賞に応募したところ予選を通過した。これ以降、サラリーマンをしながら小説を書き、新人賞への応募を続けた。
 
28歳でタイトーを退社したとき、[[オール讀物推理小説新人賞]]の最終選考に残っていたが、受賞はならなかった。このときの受賞者は宮部みゆきであり、「かち合った相手が悪かった」と述懐している<ref>『わが懐旧のイタ・セクスアリス 小説作法・小説教室』山村正夫 P.164 1998年11月 [[ケイエスエス]]</ref>。同賞では、このときを含めて最終選考に3回残ったが、結局、受賞はできなかった。
 
1989年、東京で週1回、開かれる[[山村正夫]]の小説講座に岐阜から通いはじめた。ここで篠田節子らと知り合った<ref>『わが懐旧のイタ・セクスアリス 小説作法・小説教室』山村正夫 P.160-164 1998年11月 [[ケイエスエス]]</ref>。
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