「切捨御免」の版間の差分

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また、上意討ち・無礼打ちに理不尽を感じた者は、両者にどのような身分差があれど(たとえ上司であっても)、[[脇差]]でならたとえ殺すことになっても刃向かうことも許された。むしろ討たれる者が[[士分]]の場合、何も抵抗せずにただ無礼打ちされた場合は、国家鎮護守・外敵制征圧(軍事警察力)を担う兵(つわもの)である'''[[武家]]としての「不心得者である」'''として、生き延びた場合でもお家の士分の剥奪、家財屋敷の没収など厳しい処分が待っていたため、無礼打ちする方・受ける方双方命懸けで臨まねばならなかった。そのため上司が上意討ちをする場合、まず討つ相手に脇差を持たせてけしかけ、刃向かわせてから即座に斬る、という場合もあった。
 
ただしこのような騎士道的な態度が裏目に出ることもある。[[尾張藩]]家臣、朋飼佐平治は路上で町人と突き当たった。佐平治が咎めたのにもかかわらず、町人は無視してそのまま立ち去ろうとした。佐平治は無腰の町人を手打ちにするのを不本意と考え、自らの脇差を相手に渡して果たし合いの形式をとろうとしたが、町人はその脇差を持ったまま遁走し、「余れ佐平治をふみたり(打ち負かす)」と触れ回った。悪評を立てられた佐平治は已む無く出奔を余儀なくされ、武士の一分を立てるために町人の家を突き止め女子供に至るまで殺害するに至った<ref>朝日重章『[[鸚鵡籠中記]]』</ref>。
 
また、他領の領民に対する危害行為は、たとえ正当防衛である切捨御免の結果であったとしても、その領民が属する封建領主への敵対的行為とされる恐れがあった。つまり幕府直轄地である江戸で町民に危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがあった。このため諸藩は江戸在勤者に対し、直接切捨御免には言及していないものの「町民とトラブルを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発した記録が残っている。このため簡単には斬れない事情を知っていた町民の中には、[[いき|粋]]を衒ったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたという。もっとも町人から侮辱を受けたまま何もせずにいたところを朋輩に見られた場合、今度は「臆病者」との謗りを受け、これまた「士道不覚悟」で罰せられることになる。従って武士は街中でこのような恥辱を受ける事を避けるために、供を付けず一人歩きするようなことは避ける必要があった。加賀藩『御法度』[[寛永]]8年([[1631年]])では、そのように定めている。特に[[劇場|芝居小屋]]や[[銭湯]]のような、町人と密接な接触が想定される場に足を踏み入れることは、極力慎むことが求められた(もっとも、江戸中期以降にはこのような芝居小屋・銭湯などの大抵の公共施設では刀を預ける刀架所が下足所の横に設けられた)。こういった町人とのトラブルを回避するため、諸大名家は江戸[[町奉行]]の[[与力]]・[[同心]]には毎年のように付け届けを行っており、彼らは正規の俸禄に数倍する実収入を得ていた。
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