「ヨーゼフ・ロート」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち<!-- Herkunft --> ===
[[ガリチア]]の[[シュテットル]]、[[ブロディ]]近郊の[[ドイツ植民]]村シュヴァーベンドルフ [[:de:Schwabendorf|Schwabendorf]]<small>(シュファビ Szwaby、現ピドヒルチ Pidhirci)</small>で生まれたと称していたが、実際は[[ブロディ]]。[[ウィーン]]大学に学ぶ。
 
=== ウィーンとベルリンでのジャーナリスト<!-- Journalist in Wien und Berlin --> ===
[[第一次世界大戦]]に従軍した後、[[1920年]]4月末、ロートは[[ベルリン]]へ移り、前述の出身地詐称でベルリン当局に問題とされた。
[[ジャーナリスト]]としてNeuen Berliner Zeitungなどで活動を開始する。[[1921年]]から主に[[:en:Berliner Börsen-Courier]]で働く。[[1923年]]に[[:en:Frankfurter Zeitung]]で活動する。
 
=== 小説家<!-- 英語版Fiction career --> ===
一方で、明晰な文体で物語性に富む小説を次々と発表した。この時期の作品に『果てしなき逃走』『ラデツキー行進曲』などがある。政治的には[[シオニズム]]思想を支持する一方で、多民族が共存していたかつての[[オーストリア・ハンガリー帝国]]に郷愁を抱き続けた。
 
=== 移民<!-- Emigration --> ===
[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の政権掌握後は、[[1933年]][[1月30日]]にドイツを去り、[[フランス]]など各国を転々と亡命したが、最後の10年を主に[[パリ]]で過ごした。[[1936年]]から[[1938年]]には[[:en:Irmgard Keun]]と恋愛関係にあった。二人は共に働き、[[ヴィリニュス]]・[[リヴィウ]]・[[ワルシャワ]]・[[ウィーン]]・[[ザルツブルク]]・[[ブリュッセル]]・[[アムステルダム]]を旅行した。ヨーゼフは二人の関係において、ユダヤの出自を除けば、[[カトリシズム|カトリック信仰]]を第一に考えていた。
 
=== 最後<!-- Letzte Lebensjahre --> ===
大量の飲酒が命を縮めたとも言われているが、[[1939年]]には生前最後の作品となった『聖なる酔っぱらいの伝説』でそのアルコールにまつわる作品を発表。[[1939年]][[3月27日]]、[[パリ]]で病死。
 
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* ''Der Leviathan'' (1940) (『[[リヴァイアサン (曖昧さ回避)|珊瑚商人譚]]([[レヴィアタン]])』)
 
=== 日本語訳 ===
日本では1930年の存命中に[[小松太郎]]が『脱走者フランツ 涯しなき逃走』を翻訳した。『ヨーゼフ・ロート作品集』全3巻が東邦出版社(1974)より、『ヨーゼフ・ロート小説集』全4巻が鳥影社より刊行されている。
 
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* 放浪のユダヤ人とエッセイ二篇 平田達治訳 鳥影社・ロゴス企画 2009.5
*『ヨーゼフ・ロート小説集』鳥影社(全4巻)
:**1 <small>優等生/バルバラ/立身出世/サヴォイ・ホテル/曇った鏡/ツィパーとその父</small>』(平田達治・[[佐藤康彦]]訳、1994年7月)
:**2 <small>ヨブ-ある平凡な男のロマン タラバス-この世の客</small>』(平田達治・佐藤康彦訳、1999)
:**3 <small>美の勝利 ある殺人者の告白 偽りの分銅</small>』(平田達治・佐藤康彦訳、1993年6月)
:**4 <small>皇帝廟 第千二夜物語 珊瑚商人譚</small>』(平田達治・佐藤康彦訳、1997年12月)
 
=== 映像化作品 ===