「ヨーゼフ・ロート」の版間の差分

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[[1923年]]に[[:de:Frankfurter Zeitung|Frankfurter Zeitung]]で活動する。[[1923年]]に未完の処女作『蜘蛛の巣』を[[:de:Arbeiter-Zeitung|Arbeiter-Zeitung]]紙上に連載し、最後の連載日[[11月6日]]から二日後の[[11月8日]]に、小説の舞台設定とは場所が異なるものの同じようにして[[ミュンヘン一揆]]が勃発した<ref>p.393、池内紀、[[岩波文庫]]、2013年</ref>。明晰な文体で物語性に富む小説をこれ以降次々と発表した。『果てしなき逃走』(1927)や『ヨブ-ある平凡な男のロマン』(1930)等で作家として一定の評価を得るようになった。
 
[[1928年]]に妻Friedlが[[統合失調症]]という病名で入院させられ、ロートは精神的危機となり深酒を始め、かつ経済的危機となった。[[1929年]]には[[ブコビナ]]出身の女優Sybil Raresと知り合ったが、関係は長続きしなかった。政治的[[1929年]][[10月24日]]始まった[[シオニズム世界恐慌|大恐慌]]思想を支持する一方でがドイツへも押し寄せ、経済的危機となった。ベルリン時代末期には、多民族が共存していたかつての[[オーストリア・ハンガリー帝国]]に郷愁を抱き続ける心情を反映したベルリン時代末期の作品『ラデツキー行進曲』『皇帝の胸像』などがある書かれた。これらの作品では、ドイツによるオーストリア・ハンガリー帝国併合を描いた。
 
[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の政権掌握後は、[[1933年]][[1月30日]]にドイツを去り、[[フランス]]へ亡命して最後の10年を主に[[パリ]]で過ごした。この頃、[[ザルツブルク]]に残っていた[[シュテファン・ツヴァイク]]に援助されたが、[[1935年]]になると、執筆の継続が困難になり、Friedlと離婚。[[1936年]]から[[1938年]]には[[:de:Irmgard Keun|Irmgard Keun]]と恋愛関係にあった。ヨーゼフは二人の関係において、ユダヤの出自を除けば、[[カトリシズム|カトリック信仰]]を第一に考えていた。オランダの[[ドイツ文学#ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年)|ドイツ亡命文学出版社]]([[:de:Leopold Schwarzschild|Leopold Schwarzschild]]の[[:de:Deutschsprachige Exilpresse (1933–1945)|Deutschsprachige Exilpresse]])との仕事を始め、[[:de:Das Tage-Buch|Das Tage-Buch]]で書評等を執筆した。二人は共に働き、[[ヴィリニュス]]・[[リヴィウ]]・[[ワルシャワ]]・[[ウィーン]]・[[ザルツブルク]]・[[ブリュッセル]]・[[アムステルダム]]を旅行した。[[1936年]]3月から11月にかけてのアムステルダム滞在中に[[:nl:Maurits Dekker|Maurits Dekker]]と出会って友人となり、『ある殺人者の告白』の出版を支援された。