「小田政治」の版間の差分

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| 生誕 = [[明応]]元年([[1492年]])
| 死没 = [[天文_(元号)|天文]]17年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1548年]][[3月31日]])
| 改名 = 亀若丸([[幼名)、]])→政治
| 別名 = 長尹(別名)
| 諡号 =
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== 生涯 ==
明応元年(1492年)、[[堀越公方]]・[[足利政知]]の子として生まれる。父の政知は前年に死去していたため、父の死後に生まれたことになる。また、[[室町幕府]]第11代将軍・[[足利義澄]]の弟に当たる。
 
また、[[室町幕府]]第11代将軍・[[足利義澄]]の弟に当たる。
但し、『小田事蹟』では小田氏第13代当主・[[小田成治]]の実子(三男)であるとしている。この場合、第8代将軍[[足利義政]](政知の弟、1436-1490)から「政」の字を賜っている筈だが、政治が生まれた時には義政も政知に先立って亡くなっており、しかもおおよそ将軍が兄の11代将軍義澄(明応3年([[1495年]])から在任)の代になっているので、生誕年に誤りがない限りはこの説は誤りとみて良いだろう。よって、成治の嫡男である[[小田治孝]]がその弟の[[小田顕家]]に暗殺されたため、政知の子を成治の[[養子|養嗣子]]に迎えたとする説が有力と思われる。この場合、名前については亡き父・'''政'''知と養父・成'''治'''から1字ずつ取ったということになる。
小田氏第13代当主・[[小田成治]]の三男であるとする<ref>『小田事蹟』</ref>説もある。
 
養子とする説によると、成治の嫡男である[[小田治孝]]がその弟の[[小田顕家]]に暗殺されたため、政知の子を成治の[[養子|養嗣子]]に迎えた。
永正11年([[1514年]])、成治の死去により家督を継いで第14代当主となる。