「人情噺」の版間の差分

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最初に演じたのは[[朝寝坊むらく|朝寝房夢羅久]]だといわれている。[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]は自著「落語と私」において人情噺の定義をかなり狭く捉えており、[[講談]]における「世話物」(町人の世界を題材とするカテゴリ。武家を扱った「時代物」に対する)を、講談のように説明口調で口演するのではなく、(登場人物になりきって)感情を入れながら喋るもので、一席では口演し切れない長編が多く、サゲが存在しない―として、サゲのある落とし噺と区別している。
 
広義での人情噺においては、構成は落とし噺同様[[マクラ|枕]]、本題、サゲから成り、一席で完結するものも含まれる。題材は(米朝見解による)狭義の人情噺同様、町人の世界を舞台にするが、[[親子]]愛、[[夫婦]]の情愛、[[江戸っ子]]ないしは浪花っ子の人情、身分違いの悲恋など情に訴えるものを扱い、おかし味だけでなく感銘を受けるストーリーの展開になっている。[[くすぐり]]やサゲで笑いを取るが、全体的にはほろりとさせられる噺である。また、[[笠碁]]のように、飾り気のない、人のどうしようもない感情を存分に描く、一風変わった作品も中にはある。
 
明治期に東京から大阪に移った[[三遊亭圓馬#2代目|2代目三遊亭圓馬]]と[[翁家さん馬#5代目|5代目翁家さん馬]]が人情噺を上方で演じ伝えた。