「細川春倶」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
テンプレート付加、本文改変、カテゴリ改変
編集の要約なし
14行目:
|幕府=[[室町幕府]]
|主君=
|氏族=野州[[細川氏#野州家|細川氏野州家]]分家(賢春流)
|父母=父:[[細川教春 (野州家)|細川教春]]<br>養父:''[[細川賢春]]'' (叔父)
|兄弟=[[細川勝之|勝之]]、[[細川政春|政春]]、'''春倶'''
|妻=
21行目:
|特記事項=
}}
'''細川 春倶'''(ほそかわ はるとも)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[細川氏#野州家|細川野州家]]分家の当主
 
== 生涯 ==
野州家第3代当主[[細川教春 (野州家)|細川教春]]の子として生まれる。叔父(教春の弟)で分家をたてていた[[細川賢春]](かたはる)の養嗣子としてその跡を継いだといわれる<ref>出典:[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hosokawa.html こちら] より。</ref>。
 
[[明応]]2年([[1493年]])の[[明応の政変]]以降、[[足利義澄]]を擁立する[[細川政元]]と、[[足利義稙]]を擁立する[[畠山尚順]]・[[大内義興]]らとの対立という状況が生まれた。
 
30 ⟶ 32行目:
春倶が何時から伊予に在国していたかはわからないが、[[細川氏#阿波細川家|細川阿波守護家]]の行動などを合わせて見ていけば、その事情なども想像しうるかと思われる。
 
[[明応]]9年([[1500年]])に伊予国で死去。その事情は[[細川氏#野州家|細川野州家]]の分郡の一つに[[新居郡]]があることからもうかがえるという。
 
== 関連項目 ==
40 ⟶ 42行目:
* 末柄豊「妙心寺への紫衣出世勅許をめぐって-鄧林宗棟を中心に-」『禅文化研究所紀要』28号(2006年)
* 西尾和美「中世伊予河野氏の婚姻関係と『予陽河野家譜』-西国武士の家譜を読む-」『松山東雲女子大学人文学部紀要』6(1998年)
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ほそかわ はるとも}}