「総統」の版間の差分

出典はいずれも「総統兼首相」等が含まれており、野党時代に限られない
(出典はいずれも「総統兼首相」等が含まれており、野党時代に限られない)
'''総統'''(そうとう)とは、[[国家元首]]またはそれに匹敵する国家の最高指導者の地位を表す名称の1つ。日本語における「総統」の語義は「全体をすべくくること」<ref>『[[日本国語大辞典]]』第12巻。このほか、『[[大漢和辞典]]』巻8には「全体のことがらをすべ纏める」とある。「総統」の語の出典は、『[[漢書]]』百官公卿表の「太師、太傅、太保、是為三公。蓋参天子、坐而議政、無不''総統''」から。</ref> である。現代の中国語の場合、では「[[大統領]]」を意味する。そのため、日本語としての用例はほとんど、[[中華民国]]の国家元首のほかは、[[ドイツ国|ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]、[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]など[[全体主義]]体制国家の最高指導者の地位を示す場合に限られる。
'''総統'''(そうとう)とは、[[国家元首]]またはそれに匹敵する国家の最高指導者の地位を表す名称の1つ。
 
日本語における「総統」の語義は「全体をすべくくること」<ref>『[[日本国語大辞典]]』第12巻。このほか、『[[大漢和辞典]]』巻8には「全体のことがらをすべ纏める」とある。「総統」の語の出典は、『[[漢書]]』百官公卿表の「太師、太傅、太保、是為三公。蓋参天子、坐而議政、無不''総統''」から。</ref> である。現代の中国語の場合、「[[大統領]]」を意味する。
 
日本語としての用例はほとんど、[[中華民国]]の国家元首のほかは、[[ドイツ国|ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]、[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]など[[全体主義]]体制国家の最高指導者の地位を示す場合に限られる。
 
== {{Flagicon|DEU1935}} ドイツ ==
1942年4月26日、ナチス・ドイツ最後の国会で{{de|Führer}}は、「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これにより{{de|Führer}}は、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった<ref>指導者‐国家‐憲法体制における立法(3)、pp.45–56</ref>。
 
ヒトラーは最終的には、[[一党独裁]]体制下における支配政党の党首、首相、立法権の掌握者([[全権委任法]])、国家元首、国防軍最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった。{{仮リンク|ノルベルト・フライ|de|Norbert Frei}}はこのナチズムの統治体制を「{{de|Führerstaat}}(総統国家)」という言葉で表現した。
 
==== 消滅 ====
ヘスの地位「{{de|Stellvertreter des Führers}}」も、「副総統」等と訳されるようになった。
 
ヒトラー死後の日本語の新聞では、大統領に就任したデーニッツの地位を「総統」と訳した事例もあり<ref>[[1945年]](昭和20年)5月6日付[[読売新聞]](JACAR([[アジア歴史資料センター]])、Ref.B04013495500 、第5~6、31画像目)を参照。</ref>、その後もデーニッツを第2代総統とする資料もある<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h21.html 『日本外交文書』特集「太平洋戦争」(全3冊)] - 外務省</ref>
 
戦後、ヒトラーの地位日本語であらわす場合、訳として「総統」が一般的に使用されるようになった。これにともない、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることも見られるようにが多くなった<ref>[[ジョン・トーランド]]著、 [[永井淳]]訳 『アドルフ・ヒトラー』([[集英社文庫]])全4巻</ref>。この結果として、ヒトラーの地位としての日本語の「総統」は、次のような異なった使い方がされることとなってい状況にある。
 
#ナチ党の用語であり、ナチ党の権力掌握後はドイツ国においても用いられた、ナチ党およびドイツ民族の最高指導者を示す「{{de|Führer}}」の訳語。この形式では政権獲得後のヒトラーの肩書きは「総統兼首相」「総統兼宰相」などと表記される<ref name="asahi193484"/><ref>{{アジア歴史資料センター|第4672号 10.11.6 独逸国総統兼宰相旗等に関する件|C05034087200}}</ref><ref>[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』</ref><ref>「ヒトラー政府初期の雇用創出計画(失業対策)について [http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/1487/1/69-4abe.pdf]」[[阿部正昭]][[法政大学]]教授論文</ref>。日本のナチス研究者のうち、[[平井正]]は野党時代と国家元首時代の「Führer」は訳を区別するべきであると考えているが、場合によっては野党時代でも「総統」を用いており{{sfn|平井正|1991|pp=251}}、[[村瀬興雄]]は、大統領権限吸収以前の{{de|Führer}}を「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。
==== 戦後の日本での用例 ====
#1933年1月以降の、ドイツ国の首相であるとともにナチ党の「{{de|Führer}}」であるヒトラーの地位<ref>[[三石善吉]]「[http://157.1.40.181/naid/110006981693 トット・アウトバーン・ヒトラー:アウトバーン物語]」</ref><ref>{{Cite journal|和書|author= 荒川昭|title=新社会資本とケインズ理論 : チャーチルとヒトラーそれぞれの経済政策との対比(平本巌教授追悼号)|date=1999|publisher=三田史学会|journal=経営研究|naid=110006609346 |volume= 13(1)|pages=57-66 |ref=harv}}</ref>
戦後、ヒトラーの地位を日本語であらわす場合、「総統」が一般的に使用されるようになった。これにともない、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることも見られるようになった<ref>[[ジョン・トーランド]]著、 [[永井淳]]訳 『アドルフ・ヒトラー』([[集英社文庫]])全4巻</ref>。この結果として、ヒトラーの地位としての日本語の「総統」は、次のような異なった使い方がされることとなっている。
#1934年以降の、ドイツ国の国家元首であり、首相であり、それとともにドイツ国(ひいてはドイツ民族)および支配政党であるナチ党の最高指導者「{{de|Führer}}」であるヒトラーの地位<ref>『[[世界大百科事典]] 第2版』([[平凡社]])ヒトラーの項</ref><ref>[[高柳光壽]]・[[竹内理三]]編『角川日本史小辞典』第2版([[角川書店]])1974年。</ref><ref>[[村瀬興雄]]は、大統領権限吸収以前の{{de|Führer}}を「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している</ref>
#1921年7月から1933年1月までの、野党であったナチ党の最高指導者としてのヒトラーの地位<ref name="asahi193484"/><ref>{{アジア歴史資料センター|第4672号 10.11.6 独逸国総統兼宰相旗等に関する件|C05034087200}}</ref><ref>[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』</ref><ref>「ヒトラー政府初期の雇用創出計画(失業対策)について [http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/1487/1/69-4abe.pdf]」[[阿部正昭]][[法政大学]]教授論文</ref>。<ref name="asahi193484"/><ref>{{アジア歴史資料センター|第4672号 10.11.6 独逸国総統兼宰相旗等に関する件|C05034087200}}</ref><ref>[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』</ref><ref>「ヒトラー政府初期の雇用創出計画(失業対策)について [http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/1487/1/69-4abe.pdf]」[[阿部正昭]][[法政大学]]教授論文</ref>。
#1933年1月以降の、ドイツ国の首相であるとともに支配政党であるナチ党の最高指導者であるヒトラーの地位
#1934年以降の、ドイツ国の国家元首であり、首相であり、それとともに支配政党であるナチ党の最高指導者であるヒトラーの地位<ref>『[[世界大百科事典]] 第2版』([[平凡社]])ヒトラーの項</ref><ref>[[高柳光壽]]・[[竹内理三]]編『角川日本史小辞典』第2版([[角川書店]])1974年。</ref><ref>[[村瀬興雄]]は、大統領権限吸収以前の{{de|Führer}}を「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。</ref>
 
== その他のファシスト国家 ==
{{see also|ドゥーチェ}}
 
[[イタリア]]の'''総統'''は、[[イタリア王国]]の独裁者[[ベニート・ムッソリーニ]]の肩書を表現する際限ら使用されることもある<ref>{{Cite journal|和書|author= 河野穣|title=イタリア自動車産業(ファシズム下)における労使関係の展開(4)|date=1985|publisher=三田史学会|journal=中央学院大学論叢. 商経関係 |naid=110001050519 |volume= 20(2)|pages=45-67 |ref=harv}}、58p</ref>。ただし、ムッソリーニの肩書きは日本語では一般には'''統領'''あるいは'''統帥'''と訳される場合が多い
 
ムッソリーニは[[ファシスト党]]創設当初から{{it|Duce}}(ドゥーチェ)と呼ばれており、これはドイツ語の{{de|Führer}}に相当する単語である。ムッソリーニは[[1922年]][[10月]]、[[イタリア王|国王]][[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]から[[イタリアの歴代首相の一覧|首相]]に任命された。[[1925年]][[1月3日]]の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、12月24日に従来の[[イタリアの首相|閣僚評議会議長]]([[首相]]職)より権限の強い「{{仮リンク|国家統領|it|Capo del governo primo ministro segretario di Stato}}」({{lang-it|Capo del governo primo ministro segretario di Stato}})に就任した。ただし、法律上は国王が国家元首で、ムッソリーニは首相であること(つまり、ムッソリーニは国家元首ではない)、また、軍隊も彼ではなく国王に対し忠誠を誓っているなどの点で、ドイツの総統に比べると独裁の程度は弱い。実際にムッソリーニは、[[1943年]]7月に国王から首相を罷免されると、その場で[[イタリア軍]]憲兵に身柄を拘束され幽閉された([[イタリアの講和 (第二次世界大戦)]])。その後ドイツによって北イタリアに成立した[[イタリア社会共和国]]において、ムッソリーニは国家元首の地位にあるとされ、指導政党である[[共和ファシスト党]]においてもドゥーチェと呼ばれたが、実権を持たないドイツの傀儡に過ぎなかった。
 
=== {{Flagicon|ESP1939}} スペイン ===
{{see also|カウディーリョ}}
[[スペイン]]の'''総統'''は、[[スペイン語]]の{{es|Caudillo}}([[カウディーリョ]])の訳語の1つである。{{es|caudillo}}は、ドイツ語の{{de|Führer}}、英語の{{en|leader}}に相当する単語で、本来は頭目や親分を意味するが、'''統領'''とも訳され、[[スペイン]]や[[イスパノアメリカ]]では独裁権を握った政治・軍事指導者に対して使用された称号である。特例として、[[スペイン王国]]の国家元首[[フランシスコ・フランコ]]の称号として'''総統'''と訳される。
[[スペイン]]の'''総統'''は、[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン]]の国家元首[[フランシスコ・フランコ]]の称号を指す<ref>{{アジア歴史資料センター|A03025334900|西班牙再び平和を提唱}}</ref><ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/page5_000240.html 外交史料館 特別展示「日本とスペイン―外交史料に見る交流史―」VI 外交関係の再開] - 1953年6月22日にマドリードで行われた[[明仁|皇太子明仁親王]]のスピーチ原稿では「フランコ総統」と記載されている </ref>。
 
フランコの肩書きは時代によって変化するが、一般に[[スペイン語]]で{{es|Caudillo}}([[カウディーリョ]])と呼ばれてい。{{es|caudillo}}は、ドイツ語の{{de|Führer}}、英語の{{en|leader}}に相当する単語で、本来は頭目や親分を意味するが、'''統領'''とも訳され、[[スペイン]]や[[イスパノアメリカ]]では独裁権を握った政治・軍事指導者に対して使用された称号である。、フランコの称号として{{es|Generalísimo}}(ヘネラリッシモ)もあるが、これは{{es|general}}([[将軍]])に[[増大辞]]の {{es|‐isimo}} がついた語で、将軍の上位にあって陸海空の三軍を統括する地位を意味する。このスペイン語の単語は、'''[[大元帥]]'''、'''[[総帥]]'''、'''総司令官'''などと訳される。
 
[[スペイン内戦]]で反乱軍内の指導権を確立したフランコ将軍は、[[1936年]]10月1日[[ブルゴス]]において、反乱軍の総帥({{es|Generalísimo}} ヘネラリッシモ)に指名され、反乱軍側の国家元首({{es|Jefe de Estado}} ヘーフェ・デ・エスタード)に就任した。その際、フランコは国家元首としての自己の称号を'''総統'''({{es|el Caudillo}} エル・カウディーリョ)と定めた。以後、フランコは軍隊の総司令官として総帥(ヘネラリッシモ)、国家元首として総統(カウディーリョ)と呼ばれることとなる<ref>[[色摩力夫]]『フランコ スペイン現代史の迷路』[[中央公論新社]]、2000年。</ref>。フランコ政権は、[[1938年]]1月30日に内閣制度を導入し、フランコは国家元首兼首相となった。その後、[[1939年]]3月27日にフランコ軍は首都[[マドリード]]に入城、31日にはスペイン全土が制圧され、4月1日フランコは内戦終結宣言を発した。こうして名実共に独裁体制を確立したフランコは、さらに[[1947年]]、「王位継承法」を制定し、[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン国]]を「王国」とすること、スペイン国の国家元首をフランコ総統とすること、また、フランコが終身の統治権を有し、後継の国王の指名権を持つことなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票によって成立し、フランコは終身国家元首の地位に就いた。
 
フランコ総統は[[1969年]]、自分の後継者として元国王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]の孫[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス]]を指名した。その後[[1973年]]6月に首相を辞任、[[1975年]]11月に82歳で死去した。その2日後、フアン・カルロス1世は国王に即位した。それまでの言動から独裁体制を継承すると思われていた国王であったが、予想に反して民主主義体制の整備を急ぎ、[[1978年]]12月、国王の権限を儀礼的なものに限定して権力分立を定めた[[スペイン憲法|憲法]]を、国民投票による承認を受けた上で公布した。こうして、スペインの独裁時代は幕を閉じ、「総統」の称号も消滅した。
* [[村瀬興雄]] 『アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景』(1977年、[[中公新書]]) ISBN 978-4121004789
* {{cite book|和書| title = ヒトラーのテーブル・トーク 1941–1944 上| publisher = [[三交社]]| year = 1994| isbn = 4879191221}}
* {{Cite book|和書|author=平井正|title=ゲッベルス—メディア時代の政治宣伝—|publisher=中央公論新社|date=1991年|isbn=978-4121010254}}
* {{Cite journal|和書|author= [[間崎万里]]|title=Empire, Reichの新用法とその語義及び譯語について|date=1939 |publisher=三田史学会|journal=史学|url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19391100-0001 |volume= 18( No.2/3)|pages=187-232 |ref=harv}}
 
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