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{{基礎情報 ベトナムの君主
|
|代数=初代
|呼称=王
|画像=[[ファイル:Tượng Ngô Quyền.jpg|200px]]
|説明=呉権像(唐林、カムラムの呉権廟)
|生年月日=[[897年]][[3月12日]]▼
|王朝=呉朝
|
|都城=古螺
|諱=呉権
|字=
|配偶者=不明([[楊廷芸]]の娘)▼
|諡号=
|廟号=
|没年=[[乾和]]2年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]<br>([[944年]][[1月18日]])
|父=[[呉旻]]
|母=
|陵墓=
|元号=
|注釈=
}}
{{wikisourcelang|zh|大越史記全書/外紀卷之五|大越史記全書/外紀巻之五}}
'''呉権'''(ごけん、[[ベトナム語]]: '''Ngô Quyền'''、ゴ・クエン、[[897年]][[3月12日]] - [[944年]][[1月18日]])は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者で、'''前呉王'''と称された。父親は唐林の州牧だった[[呉旻]]。楊廷芸の[[南漢]]に抗する戦争で勇敢に戦い、信頼を得て娘を娶る。南漢軍を撃退した後に楊廷芸より刺史の位を授かり、愛州([[タインホア省]])を治めた。楊廷芸が[[矯公羨]]のために殺されると、呉権は[[937年]]12月に愛州で挙兵して、矯公羨を討った。矯公羨は[[南漢]]に救援を求めた。南漢は万王[[劉洪操]]を静海節度使に任じて、兵を発し、矯公羨を救援させた。劉洪操は水軍を率いてベトナムに侵攻したが、このときすでに矯公羨は呉権に殺されていた。呉権は劉洪操の侵攻を聞いて[[白藤江の戦い (938年)|白藤江で迎撃]]し、これを大いに破った。その後、呉権は王を称した。[[944年]]、世を去った。▼
'''呉権'''(ご けん、{{lang-vi|Ngô Quyền}}、ゴ・クエン)は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者。'''前呉王'''({{lang-vi|Tiền Ngô Vương}})と称された。
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[[ドゥオンラム|唐林]](現在の[[ハタイ省]][[ソンタイ]])の州牧だった[[呉
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[[939年]]、呉権は王位に上がり、[[古螺]](コーロア)の地を選んで都とした。北方の封建朝廷の千年にも及ぶ統治に終止符を打ったのである。▼
呉権は北方封建主義の[[節度使]]の廃止を決定し、中央に新しい朝廷を樹立した。王が朝廷の先頭に立ち、政治・外交・軍事の全てを決定することにしたのである。文武の官僚を置き、朝廷内の儀礼と官吏の服装の色を階級に応じて規定した。▼
▲呉権は北方
また地方には功績のある将軍を選んで、重要な各州を治めさせた。[[丁公著]]は驩州([[ゲアン省]]・[[ハティン省]])、[[矯公罕]]は峯州([[フート省]])の刺史となった。▼
▲また
==人物==
長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩く様はまるで虎のようであったと言われている。
==参考文献==
*ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。
{{先代次代|[[呉朝]]の初代[[ベトナム帝王一覧|
{{DEFAULTSORT:こ けん}}
[[Category:ベトナムの君主]]
[[Category:呉朝]]
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