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'''張 休'''(ちょう きゅう、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[呉 (三国)|呉]]に仕えた<ref>三国時代に同名の人物が多くおり、判明しているだけでも、蜀に二名、魏に一名いる。</ref>。[[字]]は'''叔嗣'''。父は[[張昭]]の子(末子)兄は[[張承 (孫呉)|張承]]の弟。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「張昭伝」に付伝されている。
 
若くして[[孫権]]に仕えた。張休が20歳ごろとき、孫権が呉王になったため、その太子となった[[孫登]]の側近として[[諸葛恪]][[顧譚]][[陳表]]と共にてられた(孫権が皇帝となり即位し、孫登が皇太子なると、彼等4人は太子四友と呼ばれた(「呉主五子伝」)。)。張休は父から『[[漢書]]』の講義を受けていたため、孫権に見込まれて孫登に『漢書」を講義するよう要請された。『呉書』によると、張休の発言はすべが全て筋道っておりいたため、孫登張休に対して君臣の礼を超えた友誼を示したという。後に中庶子となり、右弼[[都尉]]となった。
 
孫権が狩猟に出ると、上疏してこれを諌めた。孫権はその文章が優れていたため、父の張昭に見せて張休の才能を褒め称えた。
 
の張昭が[[236年]]に没するとした時、兄の張承は既に功績を立て別に爵位を得ていたので、父の爵位を継承した。
 
孫登が死去すると、太子府から離れて[[侍中]]となり、[[羽林]]都尉となりして三典軍を指揮し、揚武将軍に昇進した。
 
孫登一方で、新た代わり太子となった[[孫和]]の妃は張承の娘が姪であったため、張休は孫和と魯王[[孫覇]](魯王)の対立([[二宮事件|二宮の変]])に巻き込まれるようになっていった(「孫和伝」)。
 
[[241年]][[芍陂の戦い]]において[[魏 (三国)|魏]]の[[王凌|王淩]]と対戦し、[[全ソウ|全琮]]の指揮下で[[全端]]ら全一族や[[顧承]](顧譚の弟)と共に奮戦し劣勢となった軍を支えきったが、戦後の恩賞を巡り全一族と対立した。この時、琮の子一族には魯王孫覇派の一人である[[全寄]]もいたため、全寄達から顧承と張休が典軍の陳洵と結託し不正を働いたと讒言され張休は罪を得て顧譚顧承と共に[[交州]]へ流罪となにされてしまった。
 
[[中書令]]のまた、[[孫弘]]は元々張休と不仲であったため、流罪の身の張休をさらに讒訴を行い、した。このことで張休は孫権から死を命じられ、まもなく自害した。41歳だったという。
 
==家系図==