「阪神急行電鉄」の版間の差分

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Si-take. (会話 | 投稿記録)
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Sh-hi (会話 | 投稿記録)
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箕有では特許の収得後、3月には十三から東海道本線沿いに一気に門戸厄神まで抜けるルートへの変更申請を行っている。しかしこれには翌年1月、明らかに特許申請時と目的が異なっていることから認めない判定が下され、結局は申請時のルートで箕有は[[1915年]](大正4年)4月、十三線の施工認可を受けた。
 
だがその直前の[[1914年]](大正3年)、箕有の大株主であり、頭取社長の[[岩下清周]]が箕有社長頭取を兼任していた箕有の大株主である[[北浜銀行]]が、[[大阪電気軌道]]・[[大林組]]への融資焦げ付きもあって破綻し、箕有が負債の担保として預けていた灘循環電気軌道の株式を同行整理にあたって売却する方針が立てられた。北浜銀行の大株主には、阪神電気鉄道の専務を勤めていたものもおり、事態は阪神電気鉄道が灘循環電気軌道の株を買収する方向で進んだ。
 
箕有と小林にとっては危機というべき事態であったが、小林は阪神に対して「灘循環電気軌道の買収を行うのであれば、十三線敷設のために要した準備費用を補償せよ」「それができないのなら免許線を阪神・箕有の共同経営とするか、箕有による買収を認可せよ」と交渉、阪神では箕有の資本力が小さいことから、この第一次世界大戦勃発直後に起こった[[恐慌]]下では買収は不可能だろうと考え、買収の意思がないことを箕有に伝えた。小林はこの機を逃さず、[[1916年]](大正5年)4月に臨時[[株主総会]]を開催し、灘循環電気軌道の買収、その特許線と十三線との結合を決議する。阪神電気鉄道はこの事態に驚き、総会無効の訴訟提出、用地買収の妨害といった活動に出た。