「カトリック東京大司教区」の版間の差分

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==歴代司教(教区長)==
* 初代 - ピエール・マリ・オズーフ<ref>ピエール・マリ・オズーフ(Pierre-Marie Osouf)<br />[[1829年]]5月26日フランス北西部のノルマンディ地方クータン司教区にて誕生。[[1852年]][[神学校]]を卒業、司祭に[[叙階]]された後、パリ外国宣教会に入会し東洋伝道を志して香港に赴任したが、まもなくパリの神学校の校長に任命されて帰国。[[1878年]]来日し、[[1891年]]に東京大司教区の初代教区長に任命され、教育事業・出版事業などに多大な功績を残した。[[1906年]]6月27日死去。</ref>(パリ外国宣教会)1891~1906年
* 2代 - ピエール・ザヴィーエ・ムガブル<ref>ピエール・ザヴィーエ・ムガブル(Pierre-Xavier Mugabure)<br />[[1850年]]1月1日フランスのバスク地方ゲタリーにて誕生。[[1874年]]に司祭に叙階。[[1902年]]東京大司教区補佐司教に任命され、[[1906年]]東京大司教に就任。聖堂の新設、出版物の刊行に力を注ぐ。[[1910年]]5月27日、故郷のバスク地方ゲタリーにおいて死去。</ref>(パリ外国宣教会)1906~1910年
* 3代 - フランソワ・ボンヌ<ref>フランソワ・ボンヌ(François Bonne)<br />[[1855年]]5月25日フランスのシャンベリー教区にて誕生。同地はアルプス山脈西麓の交通の要衝で、かつて[[1232年]]から[[1562年]]までサボイア公国の首府であった。パリ外国宣教会に入り、[[1879年]]司祭に叙階され、同年宣教師として日本に派遣された。はじめ、天草に赴任し[[1882年]]長崎神学校校長に就任し自ら神学・哲学を講義した。[[1910年]]東京大司教区に転じ東京大司教に就任。[[1912年]]1月11日東京において死去。</ref>(パリ外国宣教会)1910~1912年
* 4代 - ジャン・ピエール・レイ<ref>ジャン・ピエール・レイ(Jean-Pierre Rey)<br />[[1858年]]11月3日フランス・ジュリエナスで誕生。パリ外国宣教会に入会し[[1882年]]司祭に叙階、直ちに宣教師として日本に派遣された。同年より浅草教会内の児童福祉施設「マイ瑰学校」に勤務。同施設が関口台町に移転した時、孤児達の自立を目的としてパン製造や大工仕事などを習得させた。特にパン製造は成功を収め「[[フランスパン|関口パン]]」の愛称で呼ばれるほど周囲の住民たちの評判となった。[[1912年]]ボンヌ神父の跡を継ぎ東京大司教に就任し、[[1927年]]に引退するまで重要な任務を遂行した。[[1929年]]5月25日死去。</ref>(パリ外国宣教会)1912~1927年
* 5代 - ジャン・アレキシス・シャンボン<ref>ジャン・アレキシス・シャンボン(Jean-Baptiste-Alexis Chambon)<br />[[1875年]]3月1817日フランスのヴァロル・ヴィル(クレルモン司教区)にて誕生。[[1898年]]パリ外国宣教会に入会し、翌年司祭に叙階。宣教師として日本に派遣された。函館に赴任し、のち仙台に転じ仙台神学校校長に挙げられたが第一次世界大戦が勃発、召集をうけて帰国した。終戦後、再び来日をはたし東京大司教に就任。邦人司祭の育成に尽力、東京大神学校を設立した。[[1937年]]東京を離れ初代横浜司教に着任したが[[1940年]]引退した。[[1948年]]2月に発病し、同年9月8日入院先の横浜ジェネラル・ホスピタルにて死去。</ref>(パリ外国宣教会)1927~1937年
* 6代 - ペトロ 土井 辰雄 1937~1970年
* 7代 - ペトロ 白柳 誠一 1970~2000年