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[[497年]](建武4年)、北魏が沔北に侵攻してくると、曹虎は襄陽に軍を集めたが、[[南陽郡]]太守の房伯玉と合わず、樊城に移駐した。北魏の[[孝文帝]]とのあいだで書状を交わした。
 
[[498年]]([[永泰 (南朝斉)|永泰]]元年)、給事中・右衛将軍・持節となった。北魏の侵攻を迎撃するため、[[陳顕達]]が襄陽に入った。[[崔慧景]]が鄧城で大敗を喫すると、魏軍が沔北まで追撃をかけてきた。孝文帝の率いる10万の魏軍が樊城を包囲した。曹虎は城門を閉ざして樊城を固く守った。孝文帝は襄陽の岸から沔水に入り、湖陽に向かった。曹虎は軍主の田安之ら十数軍を派遣して追撃をかけたが、勝利できなかった。[[蕭宝巻]]が即位すると、曹虎は前将軍の号を受け、鎮軍司馬となった。[[499年]]([[永元 (南朝斉)|永元]]元年)、始安王[[蕭遙光]]が反乱を起こすと、曹虎は軍を率いて青渓中橋に駐屯した。反乱が鎮圧されると、曹虎は散騎常侍・右衛将軍の位を受けた。曹虎の晩年は収賄を好み、雍州に銭5000万を蓄えており、蕭宝巻の猜疑を買って殺害された。は六十数歳であった。[[501年]]([[中興 (南朝斉)|中興]]元年)、安北将軍・[[徐州]]刺史の位を追贈された。
 
== 伝記資料 ==