「満州国」の版間の差分

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(執筆者の主観)
 
== 概要 ==
[[満州]]は 、歴史上おおむね[[女真|女真族]](後に[[満州民族|満洲族]]と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、[[金 (王朝)|金]]や[[後金]](後の[[清]])がある。清朝滅亡([[1912年]])後は[[中華民国]]の領土となったが、政情は安定せず、事実上[[軍閥]]の支配下に置かれた。[[1931年]]、[[柳条湖事件]]に端を発した[[満州事変]]が勃発、[[関東軍]]([[大日本帝国陸軍]])により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、[[1932年]]3月、満洲国の建国に至った。[[元首]]([[満州国皇帝#執政|満洲国執政]]、後に[[満州国皇帝|満洲国皇帝]])には清朝最後の[[皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀]]がついた。当時の[[国際連盟]]加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、[[1933年]](昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。
 
[[ファイル:Puyi-Manchukuo.jpg|right|220px|thumb|愛新覚羅溥儀]]
満洲国は建国にあたって自らを[[満州民族]]と[[漢民族]]、[[モンゴル|蒙古民族]]からなる「'''満洲人'''、'''満人'''」による[[民族自決]]の原則に基づく[[国民国家]]であるとし、建国理念として[[日本人]]・漢人・[[朝鮮民族|朝鮮人]]・満洲人・蒙古人による'''「五族協和」'''を掲げた。
 
しかし「内面指導に関して建国以降外交をも包合し日本、そ全責任を持ってこれに任じある。軍はでも央の方針に基きその外交を処理する」{{sfn|森田光博|2007|pp=79}}と[[板垣征四郎]]関東軍参謀長が述べたように[[関東軍]]の強い影響下にあ指導体制が確立されてお「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた<ref>「[http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00092.php 満洲国指導方針要綱]」、昭和8年8月8日閣議決定</ref>。当時[[国際連盟]]加盟国の多くはため洲地域州国中華民国日本傀儡政下にるべき」ったする中華民国の立場を支持しいう認識が通説となっいる{{sfn|森田光博|2007|pp=75}}<ref>「日本政府を非難ないた。こ[[関東軍]]傀儡国家規定するものも少なくない」([[山室信一]]『キメラ-満洲国の肖像-』[[中公新書]]1138、[[19331993年]](昭和8、p.6、1993[[吉野作造賞]]受賞に日本が</ref><ref>「傀儡際連盟家であった満州国」([[加藤陽子]]『満州事変から脱退する主日中戦争へ』[[岩波新書]]1046、[[2007年]]、pi){{ページ番号|date=2011年9月}}、「満州事変ののち、関東軍によってつくられた傀儡国家である」{{Harv|並木頼寿|2008|p=70}}</ref><ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 満州国]-[[コトバンク]]、[[世界大百科事典]]第二版による項目 </ref>。ただし[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]原因とど、傀儡ではったという主張を行う論者も存在する
 
しかしその後、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]や[[イタリア王国|イタリア]]、[[タイ王国]]など多くの日本の同盟国や友好国、そして[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン国]]などのその後の[[第二次世界大戦]]における枢軸寄り[[中立|中立国]]も満洲国を承認し、[[日ソ国境紛争|国境紛争]]をしばしば引き起こしていた[[ソビエト連邦]]も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた<ref name="tanakaseimeisho"/>。[[アメリカ]]や[[イギリス]]、[[フランス]]など国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。
第二次世界大戦末期の[[1945年]]([[康徳]]12年)、[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄した[[赤軍]]([[ソビエト連邦軍]])による満洲侵攻と、日本の[[太平洋戦争]]敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで[[中国国民党]]率いる中華民国に返還された。その後の[[国共内戦]]を経て、現在は[[中国共産党]]率いる中華人民共和国の領土となっている。
 
中華民国および中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な[[独立国]]として見なさない立場から、「'''偽満'''」「'''偽満洲国'''」と表記する<ref>姜念東・解学詩ほか『偽満洲国史』(吉林人民出版社、[[1980年]])など</ref>。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「[[中国東北部]]」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する<ref>満洲国については、「日本ないし[[関東軍]]の傀儡国家と規定するものも少なくない」([[山室信一]]『キメラ-満洲国の肖像-』[[中公新書]]1138、[[1993年]]、p.6、1993年[[吉野作造賞]]受賞)</ref><ref>「傀儡国家であった満州国」([[加藤陽子]]『満州事変から日中戦争へ』[[岩波新書]]1046、[[2007年]]、pi){{要ページ番号|date=2011年9月}}、「満州事変ののち、関東軍によってつくられた傀儡国家である」{{Harv|並木頼寿|2008|p=70}}</ref>
 
== 国名 ==
公務員の約半分が日本内地人で占められていた。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを'''内面指導'''と呼んだ([[弐キ参スケ]])。しかし、台湾人(満洲国人)の[[謝介石]]は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど<ref>[[権逸]]</ref>、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。
 
以上の事実に鑑み、日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価<ref>「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ—満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』([[講談社]]、2005年、p.313)、[[宮脇淳子]]『世界史のなかの満洲帝国』([[PHP新書]]387、[[2006年]]、p.220)。</ref>がされることが多いが、。一方で日本内地人以外の諸民族も一定の地位を占めたことを重視して、'''五族協和'''の建前がある程度は実現されていたという評価もある{{要出典|date=2012年7月}}<!--nakamuraという出典情報が暗示されていますが、記事中に見当たりません。-->。
 
=== 選挙・政党 ===
 
== 外交 ==
満州国の外交は1933年8月の『満洲国指導方針要項』で示されたように、「帝国(日本)の外交政策に依拠し、これと同一歩調にあらしむるものとす」ものであり、関東軍の強い指導のもとにあった{{sfn|森田光博|2007|pp=80}}。満州国は設立当初、国務院の下に外交部(中国圏の政府では[[外務省]]に相当する)を設置していたが、日本以外と国交がなかったためにほとんど業務らしいものもなく{{sfn|森田光博|2007|pp=79}}、ただソビエト連邦との調整事務が任務の大半であった{{sfn|森田光博|2007|pp=79}}。これは外交活動をとおしてソ連の「[[デ・ファクト]]」の承認を得ようという軍の意向があったが、日本側の官吏が満州国の存在を無視して、実質的な日ソ間交渉となる例もあった{{sfn|森田光博|2007|pp=79}}。1937年の機構改革によって国務院内の「外交局」へと格下げされた{{sfn|森田光博|2007|pp=77-78}}。これは業務の少なさが原因と言うよりも権力構造の改革が目的であり{{sfn|森田光博|2007|pp=82-83}}、外交権限は表向きは国務総理、実際の権限は総務長官に握られるようになった{{sfn|森田光博|2007|pp=78、82-83}}。総務長官は代々日本系官吏であり、関東軍の意向を受けて行動していた{{sfn|森田光博|2007|pp=78}}。1942年4月20日に外交部は復活したが{{sfn|森田光博|2007-03|pp=158}}、その後も方針は変わらなかった。
<!--[[ファイル:Foreign recognition of Manchukuo.png|thumb|right|300px|満洲国を承認していた国。連合国側に承認されていない国家も区切られているので注意が必要<br />自由インド仮政府、汪兆銘政権、蒙古聯合自治政府は丸印]]--><!--不正確なイラスト・コメントアウト-->
 
=== 正式な外交関係を結んでいた諸国 ===
国際連盟において不承認決議がなされた後、日本の他には承認する国家がなかなか出現しなかった。1934年4月に帝政を実施する布告がなされると、[[エルサルバドル]]が承認通知を送り、バチカンが布教のための承認を行った{{sfn|森田光博|2007|pp=78}}。
第二次世界大戦開戦前の1939年当時において、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]([[1938年]]2月承認<ref>『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.54</ref>)や[[イタリア王国|イタリア]]([[1937年]]11月承認<ref>『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.55</ref>)が承認、さらに第二次世界大戦の勃発後にも[[フィンランド]]をはじめとする[[枢軸国]]、[[タイ王国]]などの日本の同盟国、[[クロアチア独立国|クロアチア]]などの枢軸国の友好国、[[スペイン]]や[[デンマーク]]などの中立国など、{{要検証範囲|date=2012年12月|合計21か国が満洲国を承認した}}。
 
1937年10月にはイタリア王国が承認を行ったが<ref>『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.55</ref>、[[ナチス・ドイツ]]の承認は遅れた。当時ドイツでは中華民国との友好関係を重視する[[中独合作]]派が[[ドイツ国防軍]]内を中心に存在しており、満州国承認を行って日本との連携強化を行おうとする[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相の就任まで承認は行われなかった。1938年2月に[[アドルフ・ヒトラー]]が国会で承認演説を行い、正式承認された{{sfn|森田光博|2007|pp=98}}。また、[[スペイン内戦]]における[[フランシスコ・フランコ]]政権を承認する対価として、日本は満州国の承認を求めた{{sfn|森田光博|2007|pp=127-128}}。フランコ政権側もこれを承諾し、日本がフランコ政権承認を行った1937年12月1日の翌日、フランコ政権の[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン国]]と満州国は相互承認を行い、国交を樹立した{{sfn|森田光博|2007|pp=128}}。
[[1939年]]([[昭和]]14年)当時の世界の独立国は60か国未満であった。<!--具体的な数値を求める。「3分の1以上の国が承認していたことになる」との文言について、3分の1が多いか少ないかは個人の捉え方次第で異なるため、一方向に決め打つような表現は削除している。-->
 
さらに第二次世界大戦の勃発後にも[[フィンランド]]、[[タイ王国]]をはじめとする[[枢軸国]]、[[クロアチア独立国]]、ドイツ占領下の[[デンマーク]]などの枢軸国による支配下にある国家が承認を行った。
 
# {{JPN1889}}(枢) - 1932年(大同元年)9月15日、[[日満議定書]]によって承認
# {{SLV}}(連)- 1934年(康徳元年)3月3日、日本に続いて2番目の承認国<ref>当時の独裁者[[マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス|マルティネス]]将軍個人の意向によるところが大きい</ref>
# {{CRI}}(連)- エルサルバドルと同時に承認<ref>[http://www.jca.apc.org/costarica/cosinfo.html JCA-NET]</ref>
# {{ITA1861}}(枢) - 後に日満伊貿易協定を締結
# {{ESP1939}} - [[フランシスコ・フランコ]]政権
# {{DEU1935}}(枢) - 独満修好条約によって正式承認
# {{CHN1940}}(枢) - [[1940年]](康徳7年)11月30日の[[s:日滿華共同宣言|日満華共同宣言]]によって相互承認
# {{THA}}(枢)
# {{MJG}}(枢)
# [[ファイル:1931 Flag of India.svg|border|25px]] [[自由インド仮政府]](枢)
# {{DEU1935}}(枢) - 独満修好条約によって承認
# {{ITA1861}}(枢) - 後に日満伊貿易協定を締結
# {{ESP1939}}
# [[ファイル:Poland flag 300.png|border|25px]] [[ポーランド第二共和国|ポーランド]](連)※
# {{HRV1941}}(枢)
# {{HUN1920}}(枢)
# {{FIN}}(枢)
 
<small>(枢)のついている国は第二次世界大戦時の枢軸国(その後離脱した国を含む)(連)のついている国は後に連合国。※ポーランドについては1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、満洲国からは事実上の国家承認されてい。</small>
 
上記の国の内、日本と南京国民政府に常駐の[[大使]]を、ドイツとイタリアとタイに常駐の[[公使]]を置いていた{{Sfn|塚瀬進|1998|p=155}}。東京に置かれていた満洲国大使館は[[麻布|麻布区]][[桜田町]]50(現在の[[港区 (東京都)|港区]][[元麻布]])にあり、ここは[[日中国交正常化]]後、広大な敷地を持つ[[中華人民共和国|中華人民共和国大使館]]に代わった<ref name="tokyojinimao">[[今尾恵介]]「失われた地名を手がかりに東京町歩き」 特集・東京の地名 町それぞれの物語 『東京人』(都市出版株式会社)第20巻第5号、平成17年5月3日発行</ref>。[[在日本中国大使#在大日本帝国満州国公使・大使|在日本大使の一覧]]も参照されたい。
 
=== 外交上の交渉接点があった諸国 ===
奉天にはアメリカ・イギリスの総領事館とフランスの領事館が存在しており、ハルピンにはアメリカ・イギリス・ソ連とポーランドの総領事館と、6カ国の領事館があり、3カ国の名誉領事が存在していた{{sfn|森田光博|2007-03|pp=74}}。こうした形で満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。また満洲国を正式承認しなかった[[ドミニカ共和国]]や[[エストニア]]、[[リトアニア]]なども満洲国と国書の交換を行っていた。しかし、国際慣例では、ある使節団との接触を明示的に拒否し続けなければその使節団を派遣した「国家」を承認したということにはならず、「国交」のない使節団のために領事館を設営することを承認したからといって暗示的に国家承認を与え(られ)たことにはならない<ref>たとえば満洲国領内には奉天・ハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の未承認国の総領事館が設置されていた。</ref>。このため、満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた
 
建国当初から欧米の資本家の接触は相次いで行われていたが、関東軍は「外資投入は満州国を承認した政府の国民に限る」という考えを持っていたため、あまり進展しなかった{{sfn|森田光博|2007|pp=78}}。
[[ソビエト連邦]]とは満洲国建国直後から事実上の国交がありイタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した<ref>「「満洲国」の対ヨーロッパ外交(二)」森田光博(成城法学第76、2007年)[http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-076-061.pdf]</ref>。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内の[[チタ]]と[[ブラゴヴェシチェンスク]]{{Sfn|塚瀬進|1998|p=154}}に満洲国の[[領事館]]設置を認めた{{Sfn|森島守人|1984|p=86}}。さらに[[日ソ中立条約]]締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉をおこなっていた。満洲国を正式承認しなかった[[ドミニカ共和国]]や[[エストニア]]、[[リトアニア]]なども満洲国と国書の交換を行っていた。[[バチカン]](ローマ教皇庁)は、教皇使節 (Apostolic delegate) を満洲国に派遣していた<ref>バチカンの[[福音宣教省]]が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある([[上野景文]]、『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92)</ref>。
 
[[ソビエト連邦]]とは満洲国建国直後から数々の外交案件の交渉が行われており{{sfn|森田光博|2007-03|pp=98}}、関東軍はこれを事実上(デ・ファクト)国交がありイタリアやドイツ承認につなげりも長うとして付き合いが存在し<ref>「「満洲国」の対ヨーロッパ外交(二)」{{sfn|森田光博(成城法学第76、|2007年)[http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-076-061.pdf]</ref>|pp=79}}。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内の[[チタ]]と[[ブラゴヴェシチェンスク]]{{Sfn|塚瀬進|1998|p=154}}に満洲国の[[領事館]]設置を認めた{{Sfn|森島守人|1984|p=86}}。さらに[[日ソ中立条約]]締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉をおこなっていた。満洲国を正式承認しなかった[[ドミニカ共和国]]や[[エストニア]]、[[リトアニア]]なども満洲国と国書の交換を行っていた。[[バチカン]](ローマ教皇庁)は、教皇使節 (Apostolic delegate) を満洲国に派遣していた<ref>バチカンの[[福音宣教省]]が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある([[上野景文]]、『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92)</ref>
 
[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]はしばしば満州国と正式な国交を持ったと解説されることもあるが、それは正確ではない。1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、日本・満洲国側は事実上の国家承認として扱おうとしたが、ポーランド側はこれを否定している{{sfn|森田光博|2007-03|pp=70-74}}。
 
[[バチカン]](ローマ教皇庁)は、教皇使節 (Apostolic delegate) を満洲国に派遣していたが、バチカンの[[福音宣教省]]が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある<ref>([[上野景文]]、『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92)</ref>。
 
=== 外交活動 ===
1938年夏にはドイツ・イタリア・スペイン・エルサルバドルにむけた『修交使節団』を派遣している{{sfn|森田光博|2007-03|pp=83}}。この使節団には満映理事長の[[甘粕正彦]]が副団長として加わっていたが、[[甘粕事件]]を理由にイギリスは甘粕へのビザの発給を行わず、アメリカは使節団全体への通過ビザ発給を拒絶した{{sfn|森田光博|2007-03|pp=85-86}}。このためエルサルバドルへの上陸は見送られた{{sfn|森田光博|2007-03|pp=85-86}}。使節団はその後イタリア、バチカン、ドイツ、ポーランド、スペインを訪れた{{sfn|森田光博|2007-03|pp=86-90}}。使節団派遣計画は満州国独自に計画されたものであったが、実行段階では日本側の強い規制が加わった{{sfn|森田光博|2007-03|pp=90}}。[[ガレアッツォ・チャーノ]]イタリア外相は「団長は彼ら(日本人軍人と官吏)の許可無く息もできない」と記している{{sfn|森田光博|2007-03|pp=86-87}}。
満洲国は[[1941年]](康徳8年)に[[日独伊防共協定]]に加わっている。[[1943年]](康徳10年)に開催された[[大東亜会議]]にも[[張景恵]][[国務総理大臣]]が参加している<ref>『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』 文藝春秋 1991年</ref>。
 
満洲国は[[1941年]](康徳8年)に[[日独伊防共協定]]に加わっている。しかしソ連への刺激をおそれた日本側の意向により、[[日独伊三国同盟]]には加盟していない{{sfn|森田光博|2007-03|pp=144}}。
 
第二次世界大戦においても[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に宣戦しない方針が1941年11月19日の外務省東亜局長・陸軍軍務局長間の合意で決定されていた{{sfn|森田光博|2007-03|pp=149}}。これはソ連および中華民国との関係を複雑にするという配慮と、交戦国を増やしたくないという[[東郷茂徳]]外相の意向によるものであった{{sfn|森田光博|2007-03|pp=149}}。1942年に[[タイ王国]]の三国同盟加入問題が起こった時にも、日本は満州国および[[汪兆銘政権]]の参加問題が起きることをおそれてタイの参加を拒否している{{sfn|森田光博|2007-03|pp=152-153}}。しかし1941年12月4日の[[大本営政府連絡会議]]においてはアメリカ・イギリス・オランダを満州国が敵性国として扱うことが確認されている{{sfn|森田光博|2007-03|pp=149}}。[[1943年]](康徳10年)に開催された[[大東亜会議]]にも[[張景恵]][[国務総理大臣]]が参加している<ref>『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』 文藝春秋 1991年</ref>。
一方、満洲国は[[日独伊三国同盟]]には加盟しておらず、第二次世界大戦においても[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[宣戦布告]]は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には[[枢軸国]]の一部であったとも解釈できる。
 
== 軍事 ==
* {{Cite book|和書|author=児島襄 |authorlink=児島襄 |title=満州帝国 |date=1983 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 全3巻 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= 森田光博 |title=「満洲国」の対ヨーロッパ外交(1) (鳥居(秋場)淳子先生古稀記念号)|date= 2007 |publisher=成城大学 |journal=成城法学|volume=75|naid=110006470828|pages=73-137 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author= 森田光博 |title=「満洲国」の対ヨーロッパ外交(2)|date= 2007-03 |publisher=成城大学 |journal=成城法学|volume=76|naid=110006470968|pages= 61-164|ref=harv}}
== 関連図書 ==
* [[貴志俊彦]]・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012
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