「早稲田大学短歌会」の版間の差分

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「槻の木」自体は都筑を主宰とする短歌[[結社]]として成長を遂げるが、早大内での学生短歌会は継続され、第2次大戦下においても[[武川忠一]]らにより活動は維持された。[[1951年]]([[昭和]]26)、[[篠弘]]、[[来嶋靖生]]、原田清らが機関誌「早大短歌」を創刊、後に「早稲田短歌」に改名された。
 
同年、[[学習院東京大学]]、[[共立女子東京学芸大学]]、[[駒澤学習院大学]]、[[國學院大學]]、[[東京駒澤大学]]、[[東京学芸共立女子大学]]などの学生短歌会とともに、[[大学歌人会]]を結成。合同歌集『列島』、『青年』などの刊行に参加した。
 
[[1962年]](昭和37)、[[佐佐木幸綱]]が「早稲田短歌」とは別に、機関誌「27号通信」を発行(27号とは、当時の部室番号)。これにより、学生短歌会としては異例な形で、当時、短歌ジャーナリズムを大きく賑せていた「短歌同人誌運動」の中で注目を浴びた。その後、[[福島泰樹]]、[[三枝昂之]]らの活動により、[[大学闘争]]世代の短歌に影響を与える。