「入鹿山且朗」の版間の差分

1960年10月、新日窒水俣工場[[アセトアルデヒド]]酢酸設備内の水銀スラッジを採取し、1962年8月、アセトアルデヒド酢酸工場の水銀滓と[[水俣湾]]のアサリから塩化メチル水銀を抽出と論文で発表。1963年2月16日、熊大研究班の報告会で「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表した<ref>熊本大学「新聞見出しによる水俣病関係年表」から1963年2月17日及び22日付熊本日日新聞参照
[http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/suishin/minamata/5chronicle/index.html][http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/suishin/minamata/5chronicle/pdf/B2/k630217.pdf][http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/suishin/minamata/5chronicle/pdf/A2/k630222.pdf]</ref>
<ref>新聞報道後、当時の熊本大学医学部長[[忽那将愛]]は入鹿山を厳しく叱責している(リンク先…水俣病:民主主義と正義への困難な道のり[http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/precautionary/LL_II/Late_lessons_Vol_2_Chapte_5_Minamata_jp.pdf]P8下段参照)。</ref>。</br>
1964年1月、[[白木博次]][[東京大学|東大]]医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、[[水俣病]]の原因が[[メチル水銀]]であることを確定する論文を発表、これが1968年9月の[[厚生省]]による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。
 
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