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生母の栗貴人は、異常なほど嫉妬深く特に彼女の愛する末子の閼于が若死するとその傾倒がますますひどくなったという。しかも義姉の館陶長公主の劉嫖(景帝の同母姉)と犬猿の仲だったという。やがて彼女は姑の[[竇后|竇太后]]とも対立したという。夫の景帝はそれを他人事のように[[紀元前153年]]に劉栄を皇太子とした。だが、彼の生母と祖母・伯母の対決は表面化して、また栗貴人と喧嘩が絶えなかった父帝もさすがに辟易してこの事態を捨て置けずに、[[紀元前150年]]冬に弟の劉徹が太子となるために彼を廃嫡にして、亡き弟の閼于の代わりに臨江王に封じて、[[長江]]付近にある[[江陵]]に赴任し、そのために生母の栗貴人はあまりの悔しさで憤死したという。
 
彼は生母が憤死したこともあり、殆ど都に参内せずに王宮で側室と戯れているばかりか、また賓客とは天下国家の事項を議論したという。臨江王の目付からこの報を聞いた父帝は眉間に皴を寄せて引き続き臨江王を厳密に監察するように命じたという。そして数年後の[[紀元前147年]]に臨江の領外に祖廟を建てる法律違反を犯した。また臨江王と対立していた大臣が景帝に讒言したことも含めて、長男の不孝行為に大激怒した景帝はついに臨江王を召喚して、腹心で“'''酷吏蒼鷹'''”(獰猛な猛禽類)と謳われた[[中尉]]の[[シツ都|郅都]]に自分の息子に峻烈な取り調べを命じたという。また、[[漢書]]の「'''[[衛綰]]伝'''」によると景帝はその前年に外戚の禍を断つために劉栄の母方の栗一族を郅都に命じて全て誅滅させている。臨江王は都に参内する前に、その途中で江陵に立ち寄って道祖神([[道教]]の神)を祀り、それが終えて馬車に乗る時に突然その車軸が折れたという。これを見た臨江王を慕う江陵の長老達は涙を溢れ出して「われらが王様はもう二度とこの地を踏まないであろう…」と号泣したという。果して江陵の長老達の予見通り、臨江王は二度と江陵の土地を踏まなかったのである。そして郅都は噂通りに峻烈な酷吏として、臨江王の精神や神経をズタズタに引き裂いたのである。これを見兼ねた魏其侯の[[竇嬰]](竇后の従子)は臨江王が生まれた時からのお傅役でもあったために、家臣に命じて“刀筆”(刃物の筆)を秘かに手渡して臨江王の無実の釈明文の手助けをさせたという。郅都によって憔悴し切った臨江王はそれを記し終わると牢番役に渡して、その刀筆で悲惨な自決をして果てたという。
 
さすがの景帝も長男のこの行為に狼狽し、また祖母の竇后はこの報を聞いて怒り狂ったように激怒まい、直ちに孫を死に追い詰めた郅都を召し出すように厳命した。だが景帝は郅都を信頼していたために、秘かに[[匈奴]]と国境にある[[雁門]]郡の太守として赴任させたという。だが、孫の非業の死に復讐心を燃えた竇后は息子に向かって執拗に小さな法律違反の過度で極刑するように迫ったという。無私無欲で人望がある郅都を庇っていた景帝もついに母に根負けして、郅都を都に召喚して市場で彼を斬首に処し、その妻子も皆殺しとしたのである。これは[[晁錯]]の最期と同様に景帝の冷酷非情の面を窺うことができる。
 
さて、亡き劉栄のことである。彼には跡を継ぐ子がなく臨江国は廃されて、漢の直轄地となり[[南郡]]に改称されたという。なお劉栄の諡号は通常「臨江閔王」である。だが太子の地位にいたこともあって、(生母の姓を因んで)栗太子或いは'''閔太子'''と呼ばれることもあるという。
 
[[Category:中国史の人物|りゆうえい]]