「廃藩置県」の版間の差分

大久保は[[薩摩藩]]の[[藩政改革]]のために[[鹿児島市|鹿児島]]にいた[[西郷隆盛]]に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも[[山縣有朋]]の[[御親兵]]設置構想が浮上すると大久保は[[岩倉具視]]とともに[[勅使]]として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。
 
ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは[[士族]]を中心とした軍備強化と[[農本主義]]的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する[[伊藤博文]]・[[井上馨]]ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。
 
大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年(1871年)1月に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。
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