「岡本綺堂」の版間の差分

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記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」([[岡鬼太郎]]と合作)が[[歌舞伎座]]で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、[[新歌舞伎]]を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。
 
1913年以降は作家活動に専念し、新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には[[国民新聞]]、[[時事新報]]の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、[[シャーロック・ホームズ]]に影響を受け、日本最初の[[岡っ引]]捕り物小説「[[半七捕物帳]]」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、[[中国]][[説話 (中国)|志怪小説]]や[[英米]][[怪奇小説]]の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの[[歌舞伎]]鑑賞を期した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。
 
1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。[[1923年]]9月1日[[関東大震災]]で[[麹町]]の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の[[額田六福]]の家に身を寄せ、その後[[麻布]]、翌年[[百人町]]に移る。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の[[芸術院]]会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『[[サンデー毎日]]』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。