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'''志怪小説'''(しかいしょうせつ)は、主に[[六朝時代]]の[[中国]]で書かれた奇怪な話のことで、同時期の'''志人小説'''(しじんしょうせつ)とともに後の[[小説]]の原型とな
==発生と
中国において古代から歴史書の編纂は重要な仕事とされて盛んに行われたが、市井の噂話や無名人の出来事、不思議な話などはそこには記載されることは稀で、それらは口伝えに伝えられるものとなっていた。[[秦]]・[[漢]]などの宮廷では、優倡、俳優といった娯楽のための職業人がおり、芸能とともに民間の話題をすることもあった。[[後漢]]末になると、[[曹丕]]が奇怪な話を集めた『列異伝』を編したと伝えられ、六朝の[[東晋]]では[[干宝]]『[[捜神記]]』を著し
一方で、[[劉宋]]の[[劉義慶]]は古今の人物の逸話を集めた『[[世説新語|世説]]』を著し、20世紀になってこのような作品を'''志人小説'''と呼ぶようになった。これらのあと、六朝時代には多数の志怪小説、志人小説が書かれた。
この発生の背景には、[[魏 (三国)|魏]]・[[晋 (王朝)|晋]]以後に「[[竹林の七賢]]」に象徴される知識階級の人々が集まって談論する[[清談]]の風潮があり、その哲学的議論の中での、宇宙の神秘や人間存在の根源といった話題に、奇怪な出来事は例証として提供された。またこの時代当時の政治的動乱を、流行していた[[五行説]]に基づいて解釈したり、[[仏教]]や[[道教]]の思想の浸透
これらの志怪小説、志人小説は、見聞きした話をそのまま書きとめたもので、素朴な文体で、長さも
宋代にも伝奇小説が書き継がれたが、過去の史料の収集という観点で志怪的な書物も生まれ、[[洪邁]]『[[夷堅志]]』などがある。
六朝時代の原本は現代にはまったく残っていない。これらは宋代に[[太宗_(宋)|太宋]]が命じて編纂した『[[太平広記]]』で収集されて残った。また唐代にかけて作られた[[類書]]である『[[芸文類聚]]』『[[北堂書鈔]]』『[[初学記]]』などに、志怪小説、志人小説からの採録がある。『太平広記』と同時期の類書『[[太平御覧]]』にも志怪・志人小説からの部分転載が多い。南宋の曽慥『類説』や、[[明]]の陶宗儀『説郛』でも収集され、明・[[清]]には志怪や伝奇が叢書の形で『五朝小説』『唐人説薈』『竜威秘書』『秘書二十一種』などが印刷出版され、[[日本]]でも[[江戸時代]]以降に広く読まれた。中でも明の顧元慶『顧氏分房小説』、毛晋『津逮秘書』(清代に『学津討原』に改訂)が後年にも刊行されている。ただしこれらのテキストは、原本のままでなく後人の手が加えられている可能性が高い。
==小説史での位置付け==
『[[荘子]]』では、つまらぬ説、些末な議論といったものを「小説」と呼び、後漢の[[班固]]は『[[漢書]]』の「[[芸文
ただし荘子や班
==代表的な作品==
*『列異伝』曹丕の作として伝えられるが、現存するものには後人の作品が混入しており、成立の経緯は不明。
*『[[捜神記]]』晋の干宝作。
*『[[捜神後記]]』晋の[[陶淵明]]作。「桃花源記」が含まれる。
*『[[述異記]]』[[斉 (南朝)|斉]]の[[祖冲之]]作。同題の[[任昉]]作の書は地理書的作品。
*『異苑』宋の劉敬叔作。劉は[[江蘇省]]銅山の人で、東晋の劉毅、[[劉裕]]に仕えた。
*『漢武故事』作者不詳。班固の作として伝えられて来たが、六朝の作品と見られる志人小説。
==参考文献==
*[[前野直彬]]編・訳『[[中国古典文学大系]]24 六朝・唐・宋小説選』平凡社 1968年
*[[竹田晃]]訳『捜神記』平凡社 2000年
[[zh:笔记小说]]
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