「瀬戸焼」の版間の差分

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*[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に[[徳川家康]]が死去して[[駿府城]]内にあった遺品は将軍家と御三家に分配されるが、そのうち[[尾張徳川家]]が受け取った分の目録『駿府御分物之内色々御道具帳』(徳川黎明会蔵)には、すでに「瀬戸」と「古瀬戸」の語の使い分けが見える。こんにちでいう「古瀬戸」とは指し示す範囲が異なるものの[[小堀政一]](遠州)『茶人の次第』([[水戸徳川家]]伝来)にも「古瀬戸」の語がみえ、近世初期には「瀬戸」と「古瀬戸」の使い分けが広がっていることが確認できる。<ref>奥田(1989)</ref>
*[[江戸時代]]になると[[肥前国|肥前]]の[[有田町|有田]]を中心にはじまった[[有田焼|伊万里焼]]と総称される[[磁器]]により次第に市場を奪われ、衰退する。
*[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]] - [[1818年]])[[加藤民吉]]親子が[[肥前国]][[有田]]から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。以降、「染付焼」(瀬戸染付)は「新製焼」、旧来の陶器は「本業焼」と呼ばれた
 
== 脚注 ==