「氏家定直」の版間の差分

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生年からすると元服してまもなくして義定が没した(永正17年([[1520年]]))と思われ、その後は義定の養子となって跡を継いだ[[最上義守]]に亘って仕えることとなる。
 
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])の[[天文の乱]]ではもまだ若年であった義守を補佐しつつ、[[伊達稙宗]]方として参加、奮闘。結果、相手の[[伊達晴宗]](稙宗の子)方の勝利に終わるが、この晴宗と義守との関係修復に尽力した。また、この頃には息子(天文3年([[1534年]])生誕)が元服し、義守から1字を賜って[[氏家守棟|守棟]]と名乗っている。この後しばらくして[[元亀]]元年([[1570年]])、義守とその長男・[[最上義光]]が家督をめぐって争った([[天正最上の乱]])時も、病身を押してその仲介に奔走し、父子の和睦と義光への家督譲渡を実現した。それからまもなくして没したとされ、跡目を嫡男・守棟が継いだ。
 
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